横溝正史の短編「裏切る時計」を読んだとき、率直に言って拍子抜けした。ミステリーを読み慣れた者にとって、結末はあまりに地味で、ほとんど救いのない形で終わってしまう。だが、そのあっけなさが、かえって新鮮に感じられたのである。
物語は、妻を殺した罪で服役中の男の告白という形で語られる。語り手である河田市太郎は、景気の悪化の中で不正な事業に手を染めていた。やがて交際相手の山内りん子に愛想を尽かし、別の女性と関係を持つようになる。
ある日、りん子の持ち物から新聞の切り抜きを見つける。それは河田の不正事件に関する記事であった。
彼はこれを、りん子が自分の犯罪を知り、警察に密告しようとしている証拠だと誤解する。この誤解が、すべてのはじまりだった。
河田は、りん子を殺して口を封じ、外部からの侵入者による強盗殺人に見せかける計画を立てる。その核心に据えられたのが、家の時計であった。彼は時計を不自然に止まるよう仕掛け、侵入者が犯行を行った時刻に時計が止まったと主張することで、自分のアリバイを成立させようとした。横溝は、この単純なトリックに一工夫を加えている。成功すれば、かなり強固な不在証明になるはずだった。
しかし、計画はことごとく裏目に出る。時計は、侵入者がぶつかったり争いの中で止まったりしたのではなく、ただゼンマイが切れて自然に止まっていた。
河田がでっち上げようとした「意図的な停止」の物語は、機械的な現実の前で崩れ去る。さらに、新聞の切り抜きをめぐる根本的な誤解、浮気相手の存在など、小さな判断の積み重ねがすべて露呈していく。
結局、河田は逮捕され、現在も服役中である。物語の最後で彼は、かつては恥じて隠していたこの馬鹿げた一連の間違いを、今ではむしろすべて打ち明けたいとさえ思っている。
通常の探偵小説であれば、ここで名探偵が登場し、緻密な推理によって真相を鮮やかに解き明かし、読者にカタルシスを与えるところだろう。あるいは、意外な犯人や動機の逆転が用意されているはずだ。だが「裏切る時計」には、そうした救済も華々しい逆転も存在しない。ただ、愚かな誤解と小さな不注意の連鎖、そして時計がただ機械的に止まったという、なんの変哲もない事実だけが残る。
このあっけなさが、なぜ新鮮に感じられたのか。ひとつには、物語が読者の期待をあえて裏切ることで、かえって「現実の失敗」のあり方に近づいたからではないかと思う。人はしばしば、自分の失敗にドラマチックな意味や、誰かの陰謀や、大きな必然性を見出そうとする。
だが実際のところ、多くの破滅は、河田が犯したような、取るに足らない勘違いや不注意の積み重ねで起きる。そして時計のように、ただ自然に、淡々と、終わる。
この短編は、ミステリーという形式を借りながら、その形式が約束する「鮮やかな解決」を拒否した。
読む者は、期待を裏切られる不満と、しかし同時に、そこにこそある種の静かな真実を感じ取る。派手な決着を求めない物語が、ときにこれほどまでに人の愚かさを、ありのままに照らし出すことがあるということを、改めて思い知らされた。

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