演じ続けることに疲れた女性の物語――『スオミの話をしよう』を見て考えたこと

五つの顔の奥にあったもの

ある夜、ふと考えていた。人を理解するということは、本当に可能なのだろうかと。三谷幸喜の『スオミの話をしよう』を見終えてから、その問いがしばらく頭から離れなかった。

物語の発端はシンプルだ。著名な詩人・寒川の妻、スオミが屋敷から姿を消す。屋敷を訪れた刑事・草野は、実はスオミの元夫だった。彼は正式な捜査を主張するが、寒川は事を大きくしたくないと拒む。そうしているうちに、屋敷には次々とスオミを知る男たちが集まってくる。

ユーチューバーの十勝、庭師の魚山、警察官の宇賀神。五人の男たちは、彼女の安否そっちのけで、誰が一番スオミを理解していたかを語り合い始める。

そして男たちが語るスオミは、見た目も性格も、まるで五人の別人だった。

自分が見たかったものだけを見ていた

出典:クランクイン!

この映画を見ながら、自分にも心当たりがあるなと思う場面が何度かあった。誰かを好きになるとき、自分は本当にその人を見ているのだろうか。それとも、自分が見たいと願う姿を、その人に重ねているだけなのだろうか。

五人の男たちは、それぞれの理想を、スオミという一人の女性に投影していた。詩人は詩人にふさわしい妻を、ユーチューバーは映える存在を、それぞれが見たかった。スオミはその求めに、驚くほど誠実に応えていたのだろう。だからこそ、五人の証言は一致しない。誰も嘘をついていないのに、誰も同じ女性の話をしていない。

出典:ロアーの映画ログ – はてなブログ

これは特別な話ではないのかもしれない。自分も、誰かに対して同じことをしてきたのではないか。そんな後ろめたさに似た感覚が、笑いの合間にじわりと染み込んでくる。

最後に立っていたのは、誰でもない一人の女性だった

物語の終盤、真実が明らかになる。スオミの失踪は、狂言誘拐だった。彼女は自ら姿を消し、身代金を騙し取り、海外へ逃げようとしていたのだ。だが、それは露見してしまう。

五人それぞれの理想の妻を演じ続けた末に、彼女が選んだのは、誰のものでもない自分自身として生きることだった。そのための逃避行が、たとえ犯罪という形を取らざるを得なかったとしても。失敗に終わったその選択の中に、不思議な切実さを感じてしまう。

演じ分けることに疲れ果てた末の逃走。それが計画通りにはいかず、結局この屋敷に、この男たちのもとに引き戻されてしまうラストには、笑いどころのはずなのに、どこか胸が締めつけられるものがあった。

ヘルシンキの夜に、ふと置いていかれる

ラストには、ヘルシンキを模したミュージカルシーンが用意されている。タイトルの「スオミ」がフィンランド語に由来することにかけた、いわば監督からの茶目っ気のある贈り物だ。

けれど、正直に言うと、あの場面に差し掛かったとき、自分はすこし置いていかれた気持ちになった。それまで積み重ねてきた、五人の男たちの寂しさや、スオミという女性の孤独な選択。そうした静かな余韻が、賑やかな音楽と踊りの中で、すこし薄れてしまったように感じたのだ。

なくても良かったのではないか、と今でも思う。あるいは、あの賑やかさこそが、本当は寂しい話に蓋をするための、三谷幸喜なりの優しさだったのかもしれない。そう思い直してみると、あの場面も少しだけ愛おしく見えてくる。

結びに

誰かを理解したと思い込むことの危うさ、そして演じ続けることの果てにある疲労。『スオミの話をしよう』は、笑いの衣をまといながら、わりと容赦のないことを問いかけてくる映画だったように思う。

ヘルシンキの夜の余韻が、もう少し静かであったなら。そんな小さな未練を残しながら、この映画のことを、もうしばらく考えていたい。

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