お盆の忙しさがようやく落ち着いた夜、Amazonプライムを開いたら配信されていた。公開が2026年5月だから、もう3ヶ月も経っていない。思ったより早い。予告映像を見たときから気になっていた作品だったので、そのまま再生ボタンを押した。
あらすじをざっくり言うと、100億円の懸賞金をかけた生放送クイズ番組が舞台。出題されるのはクローズドサークルの殺人事件で、解答者たちが次々と異なる犯人説を披露していく。ただし不正解になると黒ずくめスタッフに連行され、番組の裏では恐ろしいことが起きている——というサスペンス・ミステリーだ。
見終わって最初に思ったのは、「原作と比べてどうこう言っても仕方がない」ということだった。
原作の深水黎一郎の小説は、文字ならではの叙述トリックを駆使した本格ミステリーとして高く評価されている作品らしい。映像化不可能とも言われていたようで、それを映画にしたわけだから、当然「原作の方がよかった」「映画はあそこが違う」という声が出る。ネットを見ればそういう感想は山ほどある。
でも、そういう比較論を映画の評価軸にするのは、ちょっと違うんじゃないかと自分はいつも思っている。
映画には映画の時間がある。2時間、せいぜい2時間半。その枠の中に物語を収めるためには、何かを選び、何かを捨てる。原作の全部を拾うことは物理的に不可能で、だから監督も脚本家も、自分たちなりの優先順位で再構成する。そのプロセスそのものが、映画という表現の仕事だ。
だから自分は映画を見るとき、最初からそれを頭に入れておく。「この映画は映画として何をしようとしているか」を見る。原作と照らし合わせるのではなく、スクリーンの中で何が起きているかを素直に受け取る。
『ミステリー・アリーナ』で言えば、映画版が選んだのは「映像で見せられたものさえ信じ込む」という感覚的な体験だったと思う。脳内映像を可視化する装置「デジャブ」は、小説では不可能な仕掛けだ。解答者それぞれの推理に応じて、スクリーン上の「再現映像」が書き換わっていく。見ている側も、その映像をついつい「真実」として受け取ってしまう。
それは原作の叙述トリックを映像的に翻訳した結果であって、「忠実かどうか」より「映画としてどう機能しているか」を見る方が、ずっと楽しい。
そして、その映像体験を全部引き受けていたのが唐沢寿明だった。
巨大なアフロ、極彩色の衣装、毒舌、踊り。開幕直後から「この人は何者だ」という圧迫感がある。司会者・樺山桃太郎という役は、映画全体のトーンを決める役割を担っていて、唐沢寿明はそれを完全にやりきっていた。
過剰な演出は、ともすれば「チープ」と見られることもある。でも、あの過剰さがあるからこそ、物語が後半に向けて変質していく落差が生きる。道化の仮面をつけた男が何者だったか、最後の独房のシーンで静かに反転する。あそこは思わず画面を見直してしまった。
映画は映画だ、と思いながら見ると、いろいろなものが見えてくる。原作ファンの不満も、映像化の工夫も、それぞれの理屈があって当然で、どちらが正しいということでもない。
ただ自分は、2時間をこう使ったという監督の選択を、まず受け取ることにしている。それで十分に楽しめる映画だった。

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