「森蘭丸」(1955) 悲恋だけでは終わらない、本能寺の大立ち回り

1955年公開の『森蘭丸』は、森蘭丸とおたきの悲恋を描いた時代劇である。

しかし、観終わって強く印象に残ったのは、最後の10分間に繰り広げられる本能寺の大立ち回りだった。そこに中村扇雀(二代目)の舞や、美しいカメラワークも加わる。恋愛劇という枠だけでは収まらない、よくできた映画だった。

目次

若き山村聰に面影を探す

織田信長を演じているのは山村聰である。

私にとって山村聰といえば、『必殺仕掛人』の音羽屋半右衛門と『助け人走る』の清兵衛である。どちらも裏稼業を取り仕切る人物で、落ち着いた物腰と独特の威厳が印象に残っている。

その山村聰が信長を演じているというので、どこかに見慣れた面影がないかと、つい顔を追ってしまった。

ところが、あまりにも若い。

当然ながら、1955年の作品なので、後年の必殺シリーズとは随分と年月が離れている。それでも、知っている山村聰の顔と目の前の信長が、なかなか結びつかなかった。

結局、最後まで音羽屋半右衛門や清兵衛の面影を見つけることができなかった。俳優の出演作を時代をさかのぼって観ると、こういうこともある。

中村扇雀の舞と美しいカメラワーク

森蘭丸を演じるのは、二代目中村扇雀である。

印象に残ったのは、その舞の美しさだった。

時代劇の主人公でありながら、武士としての勇ましさだけではなく、舞を通して優雅さも見せる。動きそのものに見応えがあり、舞台で培われた表現力が映画の中でも生きている。

そして、その姿を捉えるカメラワークも美しい。

古い日本映画を観ていると、人物の配置やカメラの動きに、思いがけず目を奪われることがある。この作品もそうだった。

物語を追うだけでなく、画面そのものを眺めていたくなる場面がある。そうした映像の美しさが、映画全体の印象を引き上げている。

本能寺の大立ち回り

何よりよかったのは、終盤の本能寺の場面である。

最後の10分間ほどに繰り広げられる大立ち回りは、想像していた以上に迫力があった。

刀で斬られる際の効果音もなければ、血が噴き出すような描写もない。後年の時代劇に見られるような、派手な演出とは無縁である。

しかし、その殺陣は実によく計算されている。

刀を振るう者、斬られて倒れる者、それぞれの動きが美しく、まるで歌舞伎の舞を見ているようだった。一人ひとりの所作が整っていて、斬り合いというよりも、緻密に組み立てられた群舞のようにも見える。

それが大勢の人間によって、入り乱れるように繰り広げられる。

斬撃音や流血といった刺激的な演出に頼らなくても、これだけの迫力を生み出せるのかと思った。むしろ、動きそのものの美しさと、画面全体の構成によって見せる殺陣だからこそ、強く印象に残ったのかもしれない。

それまでの恋愛模様や人物同士のやり取りから、一気に戦いの場面へと移っていく。その変化もよかった。

中村扇雀の優雅な舞を見せてきた映画が、最後には激しい立ち回りを見せる。同じ主人公の異なる身体表現が、一つの作品の中に収まっているところも興味深い。

この本能寺の場面がなければ、映画全体の印象はかなり違ったものになっていたと思う。

悲恋だけでは終わらない

物語は最終的に、蘭丸とおたきの悲恋として締めくくられる。

その結末は作品の大切な部分ではあるが、私にとって、この映画の魅力は恋愛劇だけではなかった。

若き山村聰の信長、中村扇雀の美しい舞、丁寧に作られた画面、そして本能寺の迫力ある大立ち回り。それぞれに見どころがあり、映画としての完成度を高めている。

若い二人が出会い、恋に落ち、やがて別れる。そして再会を果たした二人を待っていたのは、悲劇的な結末だった。その恋愛模様に、舞の美しさや時代劇ならではのアクションが重なっていく。

1955年という製作年代を意識して観始めたが、古さよりも映画としての力強さが印象に残った。

よくできた時代劇だった。

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