内田英治監督が2017年に手がけた本作は、実話をベースにしたブラックコメディである。地方都市で生まれた愛衣は、母親が新興宗教にのめり込んでいたこともあり、新興宗教施設、不良グループ一家、平凡な中流家庭などを転々とするも、自分の居場所を見つけることはできなかった。
教団が摘発されて保護された愛衣は中学校に通い始めるも馴染めず、万引きと生活保護で生きるヤンキー一家、サラリーマン家庭と居場所を求めて漂流していく。
出典:映画.com
彼女に恋する不良少年・亮太もまた、自分の居場所を探す存在だった。亮太は半グレの世界にその場所を見出し、愛衣は風俗の世界に身を落としていく。
最終的には売れっ子のAV女優として成功するというのが、この物語の結末である。
漂流する少女が辿った四つの「家」
『獣道』というタイトルが示すのは、人間が踏みならして作った「道」ではなく、獣たちが生存のために通った跡だけが残る、目的地のない通り道である。この映画の主人公・愛衣の人生は、まさにこの獣道そのものだ。
彼女が最初に与えられた「家」は、母親に連れて行かれた宗教施設だった。そこには教義があり、教祖がいて、信者という名の擬似家族がいた。だがそれは彼女自身が選んだ場所ではなく、母の信仰の延長線上に置かれた仮の宿に過ぎない。教団が摘発されたことで、その仮初めの家族すら奪われる。
次に彼女が転がり込むのは、万引きと生活保護で生きるヤンキー一家である。ここには血の繋がりこそないが、はぐれ者同士が寄り添う緩やかな連帯がある。しかし、それもまた永続する場所ではなかった。続いて描かれるサラリーマン家庭——いわば「普通」とされる家族の形——もまた、彼女を本当の意味で包み込むことはない。
最後に彼女が辿り着くのが、風俗という世界だ。これは家族でも疑似家族でもなく、肉体を介した経済的な関係性でしかない。それでも、皮肉なことに、彼女はそこで初めて「売れっ子」という形の承認を得る。
居場所を求め続けた少女が最終的に行き着いた場所が、人間関係ではなく「市場における評価」だったという結末は、この映画が最も突き刺してくる部分ではないだろうか。
「居場所」は与えられるものではなく、勝ち取るものという残酷さ
出典:MOVIE WALKER PRESS
この映画が興味深いのは、愛衣だけでなく、彼女に恋する不良少年・亮太もまた同じ巡礼者として描かれている点だ。彼は半グレたちの世界に自分の居場所を見出していく。つまりこの物語は、ひとりの少女の特殊な悲劇ではなく、地方都市という閉じた共同体において、若者たちがどこに自分の足場を築くかという、より普遍的な構造を描いているのだと言える。
宗教、非行少年グループ、中流家庭、半グレ、風俗——これらはどれも「居場所」を提供する装置として等価に並べられている。本来であれば対極にあるはずの「新興宗教」と「サラリーマン家庭」が、この映画の中では同じ機能を持つ選択肢として並置されているのだ。これは、内田監督が「正しい家族」と「歪んだ家族」という単純な二項対立を意図的に崩しているからだろう。
居場所とは、誰かに与えられるものではなく、その都度自分で選び、時には踏み外しながら獲得していくしかないものなのかもしれない。そしてその選択の過程には、必ずしも「正解」が用意されているわけではない。
ブラックコメディという文体が選ばれた理由
この重いテーマを、内田監督は「ブラックコメディ」という文体で描いた。深刻な題材をシリアスに描くのではなく、笑いの衣をまとわせることで、観客は突き放されたような感覚を抱きながらも、画面から目を逸らさずにいられる。
これは、当事者であった「愛衣のモデルとなった女性」自身が本作に出演しているという事実とも無関係ではないだろう。実話を悲劇として固定化してしまうのではなく、コメディという緩衝材を挟むことで、当事者にとっても、観客にとっても、この物語との距離の取り方を用意しているのではないか。
獣道に正しい行き先などない。あるのはただ、踏み跡だけである。愛衣が辿った道のりを、私たちは安易に「報われた」とも「報われなかった」とも言い切ることができない。それこそが、この映画が突きつけてくる、最も誠実な部分なのだと思う。



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