ジャービス・グッドランドとコロンボ警部補は、どちらも周囲より明らかに賢い。それは疑いようがない。しかし二人が「自分より劣った相手」に対してとる態度は、まるで正反対だ。この非対称が、このエピソードの静かな主題をなしている。
ジャービスにとって、甥のトニーは最初から道具でしかなかった。偽装誘拐の共犯に引き込み、金を手にした瞬間に射殺する。「長年軽蔑してきた弱虫」と公言して憚らなかった男を、計画の部品として使い捨てた。彼の温室——完全な温度管理と光量管理のもとで育てられる希少な蘭——は、その世界観の縮図だ。コントロールできるものだけが価値を持つ。コントロールできない存在は、排除するか利用するかのどちらかでしかない。
コロンボのウィルソン部長刑事への接し方は、その対極にある。警察学校出たての若手刑事は、最新の科学捜査を信奉し、自信たっぷりにジャービスの罠にはまっていく。
彼が状況証拠からキャシーを逮捕したとき、コロンボには彼の誤りが見えていたはずだ。それでも頭ごなしに否定するのではなく、ウィルソン自身の金属探知機を借り、その技術を事件解決の最後の一手として使う。若者の間違いを、若者のツールで正す。そこに嘲笑はない。
この対比は、知性には倫理が伴うという命題を、説教なしに提示している。ジャービスは頭がいいからこそ、精密な計画で甥を殺せた。コロンボは頭がいいからこそ、若手を傷つけずに導けた。同じ能力が、使い手の倫理によって正反対の結果を生む。
キャシー・グッドランドは、このエピソードで最も読み解きにくいキャラクターだ。
夫を裏切り、愛人を持ち、夫の死を悲しまない。夫殺しの容疑をかけられ警察に連行される途中、コロンボに「立ってます。どうせ刑務所に入ればゆっくり休めるんではありませんこと?」と切り返す。この台詞は、彼女が被害者の未亡人というロールをきっぱりと拒絶していることを示している。
1972年という年号は重要だ。アメリカではウーマンリブ運動が盛期を迎え、「夫に従い、家族に尽くす妻」という規範が正面から問い直されていた。キャシーはその空気の中で造形されたキャラクターだ。経済的に(夫の金とはいえ)自立し、性的にも自己決定をしている。旧来の「悲しむ妻」の演技を求めるジャービスの視線を、彼女は最初から相手にしない。
ただし、脚本はキャシーを英雄として描いてはいない。彼女の毅然とした態度は、ジャービスにとって都合のいい「犯人像」を作り上げやすくした側面もある。不貞を働く妻は疑われやすい——その時代の偏見を、ジャービスは計算に組み込んでいた。
ここで改めてコロンボの視線に注目したい。彼はキャシーを裁かない。夫婦関係の倫理的な是非に立ち入らず、「事実として誰が銃を隠したか」という一点にのみ集中する。彼女が「良い妻」でなかったことは、彼の捜査にとって関係がない。この態度は、1972年のテレビドラマとしては、むしろ静かに進歩的だ。
二つのテーマは、ここで交差する。
ジャービスはトニーを「弱者」として搾取し、キャシーを「逸脱した女」として罠にはめようとした。どちらの操作も、相手を類型として扱うことで成立している。しかしコロンボは、ウィルソンを「未熟な若手」として切り捨てず、キャシーを「怪しい人妻」として断罪しない。個人として向き合い続けた。
物語の最後、警察署の鉢植えが花を咲かせる。ジャービスが「哀れな標本」と一蹴したアフリカンバイオレットが、誰かの地味な世話によって生き延びた。その花は、コントロールされた温室では決して育たない種類の美しさだ。
ジャービスの敗北は犯罪計画の失敗ではない。他者を類型として扱い続けた倫理の失敗だ。『悪の温室』は、そのことをほとんど声高に語らず、二つの植物の対比に静かに託している。

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