1925年に公開された『黄金狂時代』で、いちばんよく知られているのは、空腹のチャーリーが自分の靴を煮て食べる場面だ。靴紐をスパゲッティのように巻き取り、靴底の釘を骨のようにしゃぶる。何度見ても笑ってしまう。
だが、この場面のもとになったのは笑える話ではない。1846年、雪のシエラネバダ山脈で立ち往生した開拓者の一団、ドナー隊の遭難事件だ。飢えた彼らは革の靴を口にし、最後には死んだ仲間の肉を食べた。
チャップリンは、その最悪の飢えを喜劇の材料にした。しかも彼は、自分の作品の中でこの映画によって記憶されたいと語っている。
なぜ飢えは笑いになったのか。この記事で考えたいのはそこだ。
あらすじ

ゴールドラッシュに沸くアラスカ。一攫千金を夢見て雪山に入ったチャーリーは、猛吹雪に追われて山小屋に転がり込む。そこには指名手配中のならず者ラーセンがいて、さらに金鉱を見つけた大男ビッグ・ジムもやってくる。

吹雪は止まず、食べ物は尽きる。ラーセンが食料を探しに出たあと、小屋に残ったチャーリーとジムは、ついに靴を煮て食べ始める。飢えが極まったジムには、チャーリーが大きな鶏に見えてくる。
やがて二人は生き延び、チャーリーは町の酒場で踊り子のジョージアに恋をする。

最後には、ジムと見つけ直した金鉱で大金持ちになり、帰りの船でジョージアと再会する。
靴を「ごちそう」として食べる

靴を食べる場面で大事なのは、チャーリーが靴を嫌々かじるのではなく、きちんとした料理として扱うことだ。
彼は鍋の中の靴を、肉の焼け具合を確かめるように何度もつつく。皿に移したら、上の部分を大男のジムに譲り、自分は靴底を取る。ナイフとフォークで切り分け、靴紐をフォークに巻いて口に運ぶ。釘は一本ずつ、鶏の骨のようにしゃぶる。最後には、釘をつまんでジムにすすめる余裕まで見せる。
字幕によれば、この日は感謝祭だ。一年でいちばんのごちそうを食べる日に、二人の前にあるのは煮た靴しかない。
笑いはこの落差から生まれる。状況は最悪なのに、チャーリーの手つきだけは上品なレストランの客のままだ。飢えそのものは少しも軽くなっていない。変わったのは、飢えている人間の振る舞いだけだ。
だから観客は、哀れな男ではなく、どんな時でも食事の作法を手放さない男を見ることになる。笑いながら、少しだけ彼を尊敬してしまう。
鶏に見える男

次の場面で、笑いは一段危ない所へ踏み込む。
飢えで意識が朦朧としたジムの目に、チャーリーが大きな鶏に見え始める。鶏の姿のチャーリーが小屋の中をよちよち歩き、ジムは銃を手に追いかける。
これは、ドナー隊で実際に起きたことをそのまま喜劇にした場面だ。飢えた人間が、隣にいる人間を食べ物として見てしまう。笑いの形をとっているが、中身は人肉食の一歩手前である。
それでも笑えるのは、チャップリンが恐怖をはっきり見せたうえで、それを鶏という間の抜けた姿に置き換えているからだ。ジムの目は本気で、銃も本物だ。ただ、追われているのが人間ではなく鶏に見えた瞬間、観客は恐怖から半歩だけ離れられる。
チャップリンは自伝の中で、悲劇こそが笑いを呼び起こすという逆説に触れている。どうにもならない状況の前では、人は笑うしかない。笑うことで、ようやくそれに耐えられる。この場面は、その考えをいちばん直接に形にしている。
笑いで飢えは満たせない
ただし、笑いは飢えを解決しない。映画もそれを知っている。
小屋の二人を救ったのは、チャーリーの機転でも作法でもない。たまたま小屋に迷い込んできた熊だ。ジムが撃ち、二人はようやく肉にありつく。飢えは笑いではなく、偶然の獲物で終わる。
結末も同じだ。チャーリーは金鉱の持ち主となり、富と恋の両方を手に入れる。現実のゴールドラッシュで、そんなふうに報われた男はほとんどいなかったはずだ。この映画の幸福は、おとぎ話の幸福である。
それでも、笑いにしかできないことはある。靴を食べる場面のあいだ、観客は飢えている男を見下ろさない。哀れむこともしない。一緒に笑い、その男の誇りを見届ける。悲劇をそのまま見せられたら目をそらしてしまうものを、喜劇はスクリーンの前に座らせたまま見せてくれる。
おわりに
『黄金狂時代』は、雪山の飢えという、喜劇にいちばん向かない題材から作られた喜劇だ。
チャップリンはそれを、靴を料理として扱う手つきと、人間を鶏に変える目の錯覚で笑いにした。どちらも飢えを消したわけではない。飢えた人間がどう振る舞うかを変えて見せただけだ。
そして、その小さな変化こそが、この映画の笑いの正体だと思う。最悪の状況でも、ナイフとフォークを手放さない。チャーリーが煮た靴に向かう姿は、笑えるのと同時に、どこか胸を張っている。

コメント