中島哲也監督の『来る』を見終えたときに印象に残るのは、恐怖というより一種の”居心地の悪さ”である。血飛沫や絶叫といった直接的な怖さよりも、この映画がじわじわと突きつけてくるのは、もっと個人的で、もっと日常的な恐怖――すなわち「自分は誰かを本当に愛しているのか」という、答えることを常に先延ばしにしてきた問いである。
出典:映画.com
主人公・田原秀樹は、一見すれば理想的な夫であり父である。SNSには子育てに奮闘する自分の姿を丁寧にアップし、周囲からは「イクメン」と呼ばれ、それを誇らしく思っている節すらある。しかし彼の”愛”は、常に誰かに見せるための愛であり、誰かに承認されるための愛である。彼が本当に見ているのは妻でも娘でもなく、自分自身を映す鏡としての家族なのだ。
この映画で最初に「あれ」に狙われるのが、まさにこの秀樹であるという設定は、実に的確な選択だと言わざるを得ない。怪異は、彼の中身のなさ、愛の空洞そのものを見抜いて寄ってくるのである。
ここに、この映画の寓話としての骨格がある。「ぼぎわん」という得体の知れない怪異は、単なる祟りや因縁の産物ではない。それは愛の不在という人間的な欠落そのものを養分にして育つ存在として描かれているのだ。
愛がないところに怪異が入り込む、あるいは愛のかたちを偽った者のもとに怪異が居座る。これは民間伝承的な語りの構造でありながら、極めて現代的な批評でもある。SNSで幸福を演出することが当たり前になった時代において、「見せかけの愛」がどれほど空虚であるか、そしてその空虚さがどれほど恐ろしい隙間を生むかを、中島哲也は極彩色の映像美とともに突き刺してくる。
面白いのは、この構造が秀樹一人の物語では終わらないという点である。妻の香奈も、そして霊能力者として物語に登場する比嘉真琴も、それぞれの形で「愛の不完全さ」を抱えている。
香奈は理想の家庭像に追い詰められ、真琴は誰からも本気で愛された経験がないように見える女性として描かれる。
真琴は、日本で最強と呼ばれる霊能力者・比嘉琴子の妹であり、姉の琴子が政府や警察にまでコネクションを持ち、全国の霊媒師や除霊師に顔が利く強者として描かれるのに対し、真琴は髪をピンクに染め、パンク系の格好でキャバクラに勤める巫女として過ごしている。
出典:HOMINIS(ホミニス)
姉のように誰からも頼られ、必要とされる存在ではなく、どこか周囲から浮いた、居場所の定まらない存在として描かれているのが真琴なのだ。この境遇の落差そのものが、彼女の「愛の不在」を静かに物語っている。
つまりこの映画において、怪異に狙われるかどうか、あるいは怪異と対峙する側に立てるかどうかを分けるのは、血縁や信仰の強さではなく、愛をどう抱え、どう欠落させているかという、極めて個人的な心の在り方なのである。
ホラー映画でありながら、実のところこれは家族というものの脆さと欺瞞を描いた社会劇であり、その意味において中島哲也が一貫して手掛けてきた”人の絆”というテーマの、もっとも捻れた変奏だと言ってよい。
さて、ここでどうしても引っかかってしまうのが、物語後半における野崎と真琴の”救済”の描かれ方である。誰からも本気で愛されていないように見える真琴だが、野崎だけは彼女を信頼している。多くの観客はこの二人の結びつきを、荒れ狂う祈祷師たちの騒乱の中で見出された、ささやかな救いとして受け取ったのではないだろうか。実際、演出上もそのように見せている。
出典:映画.com
誰からも真剣に愛された記憶を持たない真琴が、野崎という存在によって初めて信頼され、必要とされる。真琴もまた野崎の空虚さを埋めるように寄り添う。表面的には、これは美しいハッピーエンドの体裁を取っている。
しかし、これが普通にハッピーエンドでないことは、中島哲也の映画をいくつも見てきた僕にはわかる。
野崎が真琴を信頼した動機、そして真琴が野崎に応えた動機は、果たして本当に「愛」と呼べるものだったのか。
むしろそれは、互いの欠落を都合よく埋め合わせるための、極めて自己都合的な――言ってしまえば「エゴによる救済」に過ぎなかったのではないか。
野崎は、これまで誰とも本気で向き合ったことのない、どこか他人事のようにルポライターとして怪異を追ってきた男である。真琴は、姉のように誰からも頼られることのないまま、愛されるという実感を持たずに生きてきた女である。この二人が結びつくことは、確かに物語上の救いとして機能する。
だが、それは秀樹が陥っていた”愛の不在”を、形を変えてもう一度なぞっているだけではないのか、という疑いが筆者には残る。
出典:MOVIE MARBIE
つまり、この映画の本当に恐ろしいところは、怪異が滅んだように見えるラストにあるのではなく、怪異を滅ぼした者たち自身が、実は滅ぼされた者と同じ空洞を抱えたまま生き残ってしまった、という点にあるのではないか。
野崎と真琴の未熟な結びつきが、この先本当に「愛」へと成熟していくのか、それとも再び秀樹と同じような、見せかけの信頼や依存の上澄みだけをすくって生きる関係に陥ってしまうのか。筆者にはむしろ後者の予感の方が強く残る。
愛の不在を糧にする怪異が本当に消えたのではなく、次にその糧を与える者を、この物語は静かに用意してしまったのではないか。そう考えると、あの明るい終幕は、救いであると同時に、次なる呪いの種を丁寧に土に埋め込む儀式のようにも見えてくるのである。
港町でカフェを営みながら、こうした物語をあれこれと考える夜がある。愛とは与えられるものではなく、育て続けるものだという、当たり前でありながら常に忘れられがちな真実を、この映画は極彩色の恐怖を借りて語っているように思う。
『来る』というタイトルの本当の主語は、怪異ではなく、私たち自身が抱える空洞なのかもしれない。





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