1931年、アルフレッド・ヒッチコックは自身初めて、そして唯一となるドイツ語映画『Mary』を世に送り出した。

前年に制作した英語版『Murder!(殺人!)』の別バージョンとして企画されたこの作品は、同じセットを使用しながらも、異なる魅力を放つ作品となっている。
二つの作品は、トーキー映画黎明期における言語と文化の境界線上で生まれた、稀有な双子の映画なのである。
『Mary』の特筆すべき点は、その出演陣にある。主演を務めたのは、アルフレート・アーベルとオルガ・チェホーワという、当時のドイツを代表する二人の名優である。
アーベルは『メトロポリス』で冷酷な支配者を演じた実力派として知られ、チェホーワはロシア革命後にドイツへ亡命した波乱の経歴を持つ女優であった。この二人の競演自体が、映画に深い歴史的意義を付与している。

物語は、ある下宿屋での殺人事件から始まる。女優メリー・ベアリング(チェホーワ)が、同じ劇団の仲間の死体の傍らで呆然と立ち尽くしているところを発見される。
状況証拠は彼女を死刑台へと追いやるが、陪審員の一人である高名な俳優ジョン・メニアー(アーベル)は、彼女の無実を確信する。

両作品の違いは、シーンごとに鮮明に現れている。まず冒頭の殺人シーンでは、『Murder!』がより劇的な演出を施しているのに対し、『Mary』ではより抑制の効いた描写となっている。事件発覚時の取り乱した様子や、周囲の人々の動揺も、ドイツ語版ではより静謐な雰囲気の中で描かれる。
陪審員による評決のシーンは、最も顕著な違いを見せる。『Murder!』では12人の陪審員による白熱した討議が詳細に描かれ、後の『十二人の怒れる男』を彷彿とさせる緊張感に満ちている。一方『Mary』では、このシーンは大幅に短縮され、個々の表情や仕草による心理描写により重点が置かれている。
刑務所でのメリーとの面会シーンも、両版で異なる印象を与える。英語版では、より多くの対話を通じて心理的な駆け引きが描かれるのに対し、『Mary』では、チェホーワの表情の機微がクローズアップされ、言葉以上に多くを語る。

真犯人ハンデル・フェインの動機の違いも重要である。『Murder!』では彼の人種的アイデンティティ(混血であること)が動機として描かれていたのに対し、『Mary』では単なる脱獄囚の身分を隠すためという設定に変更されている。この改変は、1930年代初頭のドイツにおける政治的・社会的状況を如実に反映している。
フェインを追い詰めていく過程も、両版で異なる色合いを見せる。『Mary』では、ジョン・メニアーの洞察力がより鋭く描かれ、アーベルの抑制の効いた演技がそれを見事に表現している。オーディションを装ってフェインを追い詰めるシーンでは、英語版が劇的な対決を強調するのに対し、ドイツ語版ではより心理的な緊張感が漂う。

クライマックスの空中ブランコのシーンは、『Mary』ならではの視覚的な演出が光る。より陰影に富んだ照明や、動揺しながら演技するフェインの姿の捉え方など、ドイツ表現主義映画の影響を感じさせる演出が際立っている。
フェインの最期は、個人の悲劇であると同時に、社会の偏見が生み出す犠牲の象徴としても読み取ることができる。


また、メリーがフェインの秘密を知りながら彼を愛していたという告白のシーンも、『Mary』ではより繊細に描かれている。チェホーワの演技は、言葉にできない感情を表情と仕草だけで雄弁に物語る。このシーンは、偏見に満ちた社会の中でも存在する純粋な人間的感情と、それすら表明できない現実との痛ましい乖離を示唆している。
『Mary』の存在は、映画史における重要な証言となっている。それは、トーキー映画初期における多言語版制作の試みという技術的側面だけでなく、同一の物語が異なる文化的文脈の中でいかに変容するかを示す貴重な例でもある。ヒッチコック唯一のドイツ語映画である本作は、1930年代初頭のヨーロッパにおける文化的・政治的状況を映し出す鏡として、今なお重要な意味を持っている。


90年以上の時を経て、この作品が投げかける問いは、驚くほど今日的である。アイデンティティと偏見、真実と演技、個人と社会―これらの普遍的なテーマは、現代社会においても依然として重要な課題であり続けている。
『Mary』は、サスペンス映画の形式を借りて、人間社会の根源的な問題に切り込んだ鋭い社会批評として、今もなお輝きを失っていないのである。

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