『ジキル博士とハイド氏』(1931)|二人のハイド、異なる恐怖と悲劇

1920年の無声映画『狂へる悪魔』に続いて、1931年版『ジキル博士とハイド氏』を観た。

同じ小説を原作とする二作品だが、ハイド氏から受ける印象は大きく異なっていた。1920年版では気味の悪さを感じたのに対し、1931年版では人間の欲望と残酷さに恐怖を感じた。

そして二つの結末を比較すると、ジキル博士という人物の悲劇性についても、違った見方ができるようになった。

目次

1920年版と1931年版、二つの映画の違い

1931年版『ジキル博士とハイド氏』は、ルーベン・マムーリアン監督、フレデリック・マーチ主演の作品である。

マーチはこの映画で、第5回アカデミー賞の主演男優賞を受賞している。

先に観た1920年版『狂へる悪魔』は、ジョン・バリモアが主演した無声映画だった。

初めて観る作品だったこともあり、単純に面白かった。物語は比較的シンプルで、善良なジキル博士がハイド氏へと変貌していく過程を、分かりやすく描いていた。

特に印象に残ったのは、ジョン・バリモアの表情による演じ分けである。同じ俳優でありながら、ジキル博士とハイド氏がまったく別人に見えることに驚いた。

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一方、1931年版は人物の心理や関係がより詳しく描かれている。

ジキル博士が抱える欲望、婚約者ミュリエルとの関係、そして踊り子アイビーとの出会い。こうした出来事が丁寧に積み重ねられ、ハイド氏の残酷さをより具体的に見せていく。

とりわけ、アイビーとハイド氏の関係が、1920年版との大きな違いだった。

不気味なハイドと、恐ろしいハイド

1920年版のハイド氏には、どこか得体の知れない気味の悪さがあった。

ジョン・バリモアは顔の表情や姿勢を変えることで、善良なジキル博士とはまったく異なる人物を作り出していた。

その変貌ぶりは見事だったが、ハイド氏の悪事そのものについては、比較的簡潔な描写にとどまっている。


1931年版のハイド氏は違う。

フレドリック・マーチが演じるハイド氏は、特殊メイクによって獣のような容姿に変貌する。1920年版と比較すると、怪物としての外見がより明確になっている。

しかし、今回最も恐ろしいと感じたのは、その容姿ではなかった。

ハイド氏がアイビーを精神的に追い詰めていく、その執拗さである。

アイビーはハイド氏から逃れたいと願いながらも、彼の支配から抜け出すことができない。

ハイド氏はときに優しさのようなものを見せる。しかし、その一方で彼女を威圧し、自分の思いどおりに従わせようとする。

1931年版

いわゆる飴と鞭である。ただし、圧倒的に鞭のほうが強い。

直接的な暴力描写が長々と続くわけではない。それでも、アイビーが精神的に追い詰められていく姿からは、十分な恐怖が伝わってきた。

単に姿の醜い怪物が恐ろしいのではない。

相手の恐怖を利用し、自分の欲望を満たすために支配し続けようとする。その人間的な残酷さこそが、1931年版のハイド氏の恐ろしさだった。

1920年版のハイド氏は、存在そのものが不気味だった。

1931年版のハイド氏は、行動そのものが恐ろしかった。

この違いが、二作品を観て最も強く感じたことである。

ジキル博士は悲劇的な人物なのか

1931年版を観て、もう一つ考えさせられたのは、ジキル博士自身の責任についてである。

ジキル博士は、人間の善と悪を分離する研究を続け、自ら開発した薬によってハイド氏へと変身する。

この設定には、どこか現代のドラッグに通じるものを感じた。

薬によって普段の自分とは異なる状態になり、抑えていた欲望が表面に現れる。そして、やがて自分自身を制御できなくなっていく。

もちろん、映画の架空の薬と現実の薬物を同じものとして扱うことはできない。しかし、欲望を解放しようとした結果、取り返しのつかない事態を招いてしまうという点には、共通するものがあるように思えた。

ただ、ジキル博士の場合は、それだけでは済まされない。

重要なのは、ハイド氏として行ったことを、ジキル博士自身も覚えているという点である。

ハイド氏はアイビーを殺害したあと、ラニョン博士に助けを求める。そして、博士の目の前で薬を飲み、ジキル博士の姿に戻る。

しかし、ジキル博士に戻ったからといって、ハイド氏として犯した罪が消えるわけではない。

ジキル博士は、自分が何をしたのかを知っている。

それでも、自らの罪を認めて責任を取ろうとするのではなく、そこから逃れようとする。

誘惑に負けたというだけなら、まだ理解できる部分もある。しかし、その結果として他人を傷つけ、命まで奪っておきながら、責任から逃げようとする姿には疑問が残った。

ジキル博士は、自らの実験によって人生を破壊された悲劇的な人物なのだろうか。

それとも、自分の欲望が招いた結果から、最後まで逃れようとした人物なのだろうか。

1931年版では、後者の印象が強く残った。

二つの映画で異なる悲劇的な結末

この違いは、二作品の結末にも表れている。

1920年版『狂へる悪魔』では、ジキル博士は自らの罪に苦しみ、最後には毒を飲んで命を絶つ。

一方、1931年版では、ハイド氏は逃げ回った末に警官に撃たれて死ぬ。

どちらも悲劇的な結末であることに変わりはない。

しかし、その悲劇の意味合いは異なっているように感じた。

1920年版では、ジキル博士が自分の犯した罪に苦しみ、最終的に自ら命を絶つという選択をする。

それによって罪が償われるわけではない。それでも、自分の行動が招いた結果から逃れられず、破滅へ向かっていく人物の苦しさが伝わってくる。

1931年版では、ジキル博士は自分の罪を知りながらも、何とか逃れようとする。

ハイド氏への変身を制御できなくなっていく苦しさは描かれている。しかし、アイビーを殺害したあとも、自分が犯した罪と正面から向き合おうとする姿は見えにくい。

そして最後は、警官の銃弾によって命を落とす。

1920年版は、罪の重さに耐えられなくなった人物の悲劇として受け止められた。

1931年版は、自らの欲望によって破滅へ向かい、最後までその結果から逃れようとした人物の物語に見えた。

同じジキル博士とハイド氏を描いていながら、結末の違いによって人物に対する印象まで変わってしまう。

個人的には、1920年版のジキル博士のほうが、より悲劇的な人物として描かれているように感じた。

描写が詳しければ、優れた映画なのか

1931年版は、1920年版よりも人物の心理や行動が詳しく描かれている。

特にアイビーとハイド氏の関係によって、ハイド氏の残酷さが具体的に伝わってくる。

1931年版のほうが物語に厚みがあることは確かだと思う。

しかし、描写が詳しいからといって、必ずしも映画として優れているとは限らない。

1920年版には、物語がシンプルだからこその分かりやすさがあった。そして、ジョン・バリモアの演技そのものを楽しめる面白さがあった。

一方、1931年版では、ハイド氏という存在が周囲の人間に何をもたらすのかが、より丁寧に描かれている。

特にアイビーが精神的に追い詰められていく描写は、1931年版ならではの恐ろしさにつながっていた。

1920年版の不気味さと、1931年版の恐怖。

どちらが優れているかと聞かれても、簡単には決められない。

それぞれが異なる方法で、ジキル博士とハイド氏という物語の魅力を伝えているからである。

次は原作を読んでみたい

1920年版『狂へる悪魔』と1931年版『ジキル博士とハイド氏』を続けて観たことで、同じ原作から生まれた映画でも、これほど違った印象になるのかと感じた。

1920年版ではジョン・バリモアの演技に驚かされ、1931年版ではアイビーに対するハイド氏の執拗な支配に恐怖を感じた。

そして二作品の結末を比較することで、ジキル博士自身の責任や悲劇性についても考えることになった。

どちらの映画にも、それぞれの面白さがある。

ただ、ここまで違った二作品を観ると、今度は原作が気になってくる。

ロバート・ルイス・スティーヴンソンが1886年に発表した小説『ジキル博士とハイド氏』は、まだ読んでいない。

原作では、ジキル博士はどのような人物として描かれているのだろうか。

1920年版と1931年版は、原作の何を残し、何を変えたのだろうか。

二つの映画を観た今だからこそ、原作を読んだときに気づくこともあるはずだ。

次は小説を読んで、映画との違いを自分なりに確かめてみたい。

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