『太陽の王子 ホルスの大冒険』を見始めたとき、最初に思い出したのは『未来少年コナン』だった。
荒々しい自然。よく動く少年。崖や海や氷を舞台にした冒険。古いアニメーションらしい素朴な線と、どこか民話のような世界。画面を見ながら、これは後の宮崎駿作品につながっていく源流なのだろう、という感覚がまずあった。
出典:東映チャンネル
けれど、見終わったあとに強く残ったのは、ホルスの冒険そのものよりも、ヒルダという少女の存在だった。
昔の、子供向けの、少し古めかしいアニメ映画。見る前は、どこかそう思っていた。僕が生まれる前の映画であり、たぶん昔どこかで見た覚えもある。しかしその時は、この作品の良さがまったくわからなかったのだと思う。物語の筋だけを追えば、少年が悪魔を倒す冒険活劇に見える。古い絵柄、昭和のアニメらしい歌、わかりやすい善悪の対立。子供の頃に見れば、そうした表面だけを受け取って終わってしまったとしても不思議ではない。
しかし大人になって見てみると、この映画はまったく違って見える。
特にヒルダだ。
彼女の心の動きは、とても細かい。単に「悪魔の妹」として村を惑わす少女ではない。悪に染まりきった人物でもない。かといって、最初から清らかな被害者として描かれているわけでもない。ヒルダは、傷ついていて、諦めていて、それでもどこかで人間の温かさを求めている。
自分が人を傷つけていることを知りながら、それでもグルンワルドの支配から完全には逃げられない。彼女の中には、冷たさと優しさ、絶望と憧れ、自己保身と自己犠牲が同時にある。
出典:出町座
この複雑さが、今見ると驚くほど新鮮だった。
ヒルダを見ていると、『未来少年コナン』のラナや、『天空の城ラピュタ』のシータを思い出す。
出典:x.com
ラナもシータも、ただ守られるだけの少女ではない。彼女たちは、物語の中心にある力を背負っている。
ラナは自然や生命とつながるような感受性を持ち、インダストリアのような管理と暴力の世界に狙われる。
シータは飛行石とラピュタの血筋を持ち、ムスカに利用されそうになる。彼女たちは、少年主人公に助けられる存在であると同時に、世界の方向を決める存在でもある。
ヒルダにも、それと同じものがある。
ただし、ヒルダはラナやシータよりも暗い場所にいる。ラナやシータは、危機にさらされながらも、基本的には光の側に立っている。彼女たちは支配者に追われ、利用されそうになるが、自分自身が世界を壊す側に立つわけではない。
ところがヒルダは違う。彼女は被害者であると同時に、村を混乱させる加害者でもある。歌によって村人の力を奪い、トトに促されて破壊を引き起こす。彼女は、ただ助けられるべき少女ではなく、赦されなければならない少女でもある。
そこに、ヒルダの痛みがある。
そして、この痛みこそが『ホルス』を単なる冒険アニメではなくしている。
ヒルダの胸にある「命の珠」は、彼女を生かしているようでいて、実は彼女を縛っている。死なないために、悪魔の側に立たなければならない。孤独を避けるために、人間の世界を壊す側に回ってしまう。生き延びることと、人間らしく生きることが、彼女の中で引き裂かれている。
出典:東映アニメーション
だから終盤、ヒルダが命の珠を外す場面は、単なる自己犠牲の美談ではない。あれは、ヒルダが初めて自分の生を自分で選び直す場面なのだと思う。グルンワルドに与えられた命を捨ててでも、人間の側に立つ。支配されて生きるより、自分の意志で誰かを救うことを選ぶ。その決断によって、ヒルダはようやく「悪魔の妹」ではなく、ひとりの人間になる。
ラナやシータにも、この「拒む強さ」がある。
ラナは、暴力や管理の側に屈しない。シータは、ラピュタの巨大な力を手に入れるのではなく、その力を拒絶する。彼女たちの強さは、敵を倒す腕力ではない。世界を支配する力を欲しがらないこと。利用されることを拒むこと。自分が何の側に立つのかを、静かに選ぶこと。その意味で、ヒルダはラナやシータにつながる少女像の原型に見える。
ただ、ヒルダはもっと苦しい。
ラナやシータが「守るべき光」だとすれば、ヒルダは「闇を通ってきた光」だ。彼女は最初から清らかな場所にいるのではなく、いったん悪の側に取り込まれている。だからこそ、彼女が最後に人間性を取り戻す瞬間には、強い重みがある。純粋な少女が純粋なままでいる美しさではない。汚れ、迷い、傷つけ、それでも戻ってくる人間の美しさがある。
この映画で印象に残ったのは、そうした心の動きだけではない。
風景も美しかった。
画面には、古いアニメーションならではの素朴さがある。現代のアニメのような精密な光やデジタル処理はない。けれど、森や雪原や水辺の描写には、不思議な柔らかさがある。
とくにヒルダが現れる場面や、迷いの森のような内面的な空間には、印象派の絵を見ているような感覚があった。輪郭をくっきり説明するのではなく、色や空気や影の揺らぎによって、人物の心の状態まで見えてくる。
風景が、ただの背景ではない。
寒さ、孤独、迷い、春の気配。そうしたものが、人物の感情と一緒に画面の中で揺れている。ヒルダの寂しさは、彼女のセリフだけでなく、彼女が立っている廃墟や、歌が流れる空気そのものから伝わってくる。迷いの森も、ホルスだけの内面世界ではなく、ヒルダの分裂した心にもつながっているように見える。
出典:x.com
音楽もまた、強く残る。
いかにも昭和のアニメらしい旋律でありながら、今聞くとかえって新鮮だった。現代の作品のように、感情を過剰に説明する劇伴ではない。もっと素朴で、民謡のようで、時に哀しい。ヒルダの歌には、綺麗さと怖さが同時にある。美しいのに、人を眠らせる。優しいのに、生きる力を弱める。歌そのものが、ヒルダの二面性を表している。
ここでも、この映画は単純ではない。
美しいものが、必ずしも善ではない。悲しみは、人を深くすることもあれば、立ち上がる力を奪うこともある。ヒルダの歌は、彼女の傷の表現であると同時に、共同体を弱らせる毒にもなる。その両義性が、この作品を大人の鑑賞に耐えるものにしている。
子供向けのアニメ映画だと思って見ていた。
けれど、見終わってみると、そこにあったのはかなり複雑な人間ドラマだった。ホルスの勇気よりも、ヒルダの迷いが残る。悪魔との戦いよりも、人が人間らしさを取り戻すまでの苦しさが残る。村人たちの弱さや愚かさも含めて、この映画は人間をきれいごとだけでは描いていない。
だから今見ると、新鮮なのだと思う。
古いから新鮮なのではない。
昔の作品なのに、人間の描き方が古びていないから新鮮なのだ。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』には、たしかに昭和のアニメらしい手触りがある。線も、歌も、演出も、現在の感覚から見れば素朴に見える部分がある。しかし、その奥にあるヒルダの心の揺れは、少しも古くない。むしろ、傷つきながらも自分の意志で立ち直ろうとする少女の姿は、今の目で見るからこそ深く響く。
ヒルダからラナへ。
ヒルダからシータへ。
そう考えると、この映画はひとつの始まりのようにも見える。少年が世界を救う物語の背後で、少女が何を拒み、何を選ぶのか。その問いが、ここにはすでにある。ホルスが剣を振るう物語でありながら、本当に心に残るのは、ヒルダが自分の中の闇を見つめ、人間の側へ戻ってくるまでの道のりだった。
子供の頃には見えなかったものが、大人になってから見えることがある。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、まさにそういう映画だった。昔見たような気がするのに、その時には何もわからなかった。けれど今見ると、ヒルダの表情のかすかな揺れ、風景の静かな美しさ、音楽の寂しさが、思いがけないほど胸に残る。
古いアニメ映画を見た、というよりも、長い時間を越えて、ようやくこの作品に追いついたような感覚があった。






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