何事もなかったように弾き続ける男 『ピアニストを撃て』の壮大なバッドエンド

フランソワ・トリュフォー監督の『ピアニストを撃て』は、犯罪映画の装いをまといながら、一人の男が愛することへの勇気を失っていく過程を描いた作品である。

ギャングに追われる兄弟、誘拐、銃撃戦といった出来事が軽快なテンポで連なっていく。しかし、物語の中心にあるのは犯罪ではない。

主人公シャルリが、愛する女性を二度失ったという事実である。

しかも、その二つの死には、どちらも彼自身の沈黙が深く関わっている。

ラストでシャルリは再びピアノの前に座り、何事もなかったかのように演奏を始める。だが、あの姿は悲しみを乗り越えた人間のものではない。

私には、彼が今後二度と、自分の愛情を言葉や態度に表さないと決めた瞬間のように見えた。


目次

作品情報

出典:massu blog

『ピアニストを撃て』は、1960年に公開されたフランス映画である。

原題は『Tirez sur le pianiste』。監督と脚本をフランソワ・トリュフォーが務め、デヴィッド・グーディスの犯罪小説『Down There』を原作としている。

主人公シャルリ・コレールを演じるのは、歌手としても知られるシャルル・アズナヴール。シャルリに思いを寄せるレナをマリー・デュボワ、かつての妻テレーズをニコール・ベルジェが演じている。

上映時間は約88分。

犯罪映画、恋愛映画、喜劇、悲劇が目まぐるしく交錯し、どれか一つのジャンルへ素直に収まることを拒む作品である。その落ち着かなさこそが、シャルリという男の心の揺れを映しているようにも感じられる。


あらすじ

出典:Wikipedia

場末の酒場でピアノを弾くシャルリ・コレールは、客とも同僚とも必要以上に関わろうとせず、目立たない生活を送っている。

しかし、シャルリという名前は本名ではない。

彼の本当の名はエドワール・サロワン。かつては将来を嘱望されたコンサートピアニストだった。

エドワールにはテレーズという妻がいた。貧しい生活の中で夫の才能を信じ、その成功を願っていた女性である。

やがてエドワールは音楽家として世に出る機会を得るが、その成功の陰には、テレーズがある男へ身を任せたという事実があった。

テレーズは夫を成功させるために自分を犠牲にしたのである。

その告白を聞いたエドワールは、彼女を責めることも、許すことも、抱きしめることもできなかった。

彼はただ沈黙する。

テレーズが窓辺へ向かい、危うい状態にあることに気づきながらも、エドワールは一瞬、言葉をかけることをためらってしまう。

その一瞬の後、テレーズは窓から身を投げ、自ら命を絶つ。

エドワールが何か一言でも発していれば、その自殺は防げたかもしれない。

名前を呼ぶだけでもよかった。

許すと伝えなくてもよい。ただ、そこにいてほしいという意思を示していれば、結果は変わっていた可能性がある。

しかし、彼は言葉を発しなかった。

その沈黙は、以後の人生を支配することになる。

エドワールはピアニストとしての地位を捨て、名前もシャルリへ変え、場末の酒場へ身を隠した。過去だけではなく、誰かを愛する自分自身からも逃れようとしたのである。


もう誰も愛さないはずだった

シャルリは、人と関わることを避けて暮らしている。

誰かを好きになれば、また傷つけてしまうかもしれない。

言葉にすれば何かが壊れ、言葉にしなければ別の何かを失う。

テレーズの死を経験した彼にとって、愛は幸福の入り口ではなく、取り返しのつかない悲劇へつながる扉になっていた。

そんなシャルリに思いを寄せているのが、酒場で働くレナである。

レナは彼の過去を知り、かつてのエドワール・サロワンが再びピアニストとして舞台へ戻ることを願っている。

彼女はシャルリを放っておかない。

臆病で、自分の気持ちをうまく表現できない彼へ近づき、その閉ざされた心を少しずつ開こうとする。

出典:ameblo.jp

シャルリは当初、レナとも深く関わらないつもりだった。

彼女を好きにならないようにしていたというより、好きになったとしても、それを認めないようにしていたのだろう。

それでも、彼の心の中には密かな期待が生まれていたのではないか。

レナとなら、もう一度だけ人を信じられるかもしれない。

失った人生を、完全に取り戻すことはできなくても、別の形で生き直せるかもしれない。

シャルリは積極的に未来を望んではいない。だが、未来が向こうから訪れることを、心のどこかで待っていたように見える。


兄の逃亡と、再び近づく暴力

そんな中、シャルリの兄シコが酒場へ駆け込んでくる。

シコともう一人の兄リシャールは、犯罪組織との間に問題を抱えており、ギャングたちに追われていた。

シャルリは兄を助けたことで、望んでもいなかった犯罪の世界へ巻き込まれる。

ギャングたちはシャルリと末弟フィドを連れ去り、兄たちの居場所を聞き出そうとする。しかし、どこか間の抜けた誘拐犯たちとのやり取りにはユーモアもあり、映画は緊張と笑いの間を軽やかに行き来する。

出典:www.amazon.co.jp

その一方で、シャルリとレナの距離は近づいていく。

シャルリは不器用ながらも、レナとともにいることを受け入れ始める。

この時点で彼は、テレーズの死以来閉ざしてきた扉を、わずかに開いていたのだと思う。

だからこそ、その後に起こる出来事は残酷である。


レナの死

シャルリとレナは、兄たちが身を隠している雪山の家へ向かう。

しかしギャングたちもそこへ現れ、銃撃戦が始まる。

レナはその混乱の中で撃たれ、雪の上へ倒れる。

彼女は犯罪者ではない。

誰かを裏切ったわけでも、欲望のために争いへ加わったわけでもない。

ただシャルリを愛し、彼と一緒にいようとしただけである。

それでも彼女は死ぬ。

この映画には、善人だから救われるという秩序はない。愛情が報われるという保証もない。

人生の暴力は、その人が何をしたかとは関係なく襲ってくる。

レナの死は偶然である。

しかし、シャルリの側から見れば、テレーズの死と同じ記憶へ結びついてしまう。

自分が誰かを愛した。

あるいは、愛されることを受け入れた。

その結果、またその女性が死んだ。

もちろん、レナの死はシャルリの責任ではない。

彼が彼女を撃ったわけではなく、彼女を死なせようとしたわけでもない。

それでもシャルリ自身は、そう簡単に切り分けることができないだろう。

テレーズのときには、声をかけなかった。

レナのときには、関わらないと決めていたにもかかわらず、心の中で未来を期待してしまった。

そして、また愛した女性を失った。

シャルリにとっては、誰かを愛すること自体が悲劇を呼び寄せる行為のように思えてしまっても不思議ではない。


ピアノの前へ戻るシャルリ

映画の最後、シャルリは再び酒場へ戻る。

以前と同じ場所で、以前と同じようにピアノを弾く。

周囲から見れば、何事もなかったかのように日常へ戻ったように見える。

事件は終わった。

ギャングとの争いも去り、彼は生き残った。

そして、また仕事をしている。

しかし私は、このラストを再生や立ち直りの場面とは受け取れなかった。

シャルリは悲しみを乗り越えてピアノを弾いているのではない。

悲しみに蓋をし、二度と開けないと決めたからこそ、以前と同じ動作を繰り返せるのではないか。

テレーズを失ったあと、彼は一度、愛することをやめた。

正確には、愛してしまう自分を隠すことにした。

それでもレナには、わずかな期待を抱いた。

言葉にしなくても、彼女とともにいる未来を想像していたはずである。

だが、その期待もまた、死によって断ち切られた。

今度こそ彼は、本当に誰とも関わらない人間になるのではないか。


もう二度と、愛を表に出さない

出典:Unifrance

おそらくシャルリは、今後も誰かを好きになることはあるだろう。

人の感情は、本人の決意だけで完全に止められるものではない。

ふとした表情に心を動かされることもあれば、誰かと一緒にいたいと思うこともあるかもしれない。

しかし、それを言葉にすることはない。

態度に表すこともない。

相手へ近づくことも、自分の心へ入ることを許すこともないだろう。

テレーズには、言葉をかけられなかった。

レナには、言葉にしないまま期待してしまった。

その二つの経験を経たシャルリは、沈黙こそが人を傷つけない唯一の方法だと考えるようになるのではないか。

もちろん、それは正しい答えではない。

沈黙によって誰かを守れるとは限らないし、関わらないことで悲劇を防げるとも限らない。

しかし、シャルリにとっては、それ以外の生き方を選ぶことができなくなったのだろう。


それだけで不幸とは言い切れない

誰とも深く関わらず、一人で静かに暮らす人生を、ただちに不幸と呼ぶことはできない。

人を愛さなくても、結婚しなくても、孤独を選んでも、その人生に穏やかさや満足を見いだす人はいる。

シャルリもまた、ピアノを弾き、必要な会話だけを交わし、静かな日々を送り続けるのかもしれない。

それは彼自身が選んだ、生き延びるための方法である。

誰かにとっての幸福を、外側から押しつけることはできない。

だから、シャルリが一人で生きていくこと自体を不幸だとは思わない。

ただし、このラストには別の悲しさがある。

彼が孤独を自由に選んだのではなく、二度の喪失によって、ほかの選択肢を信じられなくなったことである。

彼は一人でいることを望んだのではなく、一人でいる以外の生き方を恐れるようになった。

その違いは大きい。


他人から見れば、壮大なバッドエンド

映画は、シャルリがその後どのような人生を送ったのかを描かない。

彼がいつまで酒場でピアノを弾き続けたのか。

再び誰かを好きになったのか。

レナの死をどのように記憶したのか。

何も語られない。

しかし、ラストの彼の姿から未来を想像すると、この作品は単に「恋人が死んだ」という悲劇では終わらない。

レナの死によって失われたのは、彼女一人だけではない。

シャルリが、もう一度誰かと生きられるかもしれないという可能性である。

彼はこれから何十年も生きるかもしれない。

仕事をし、食事をし、ピアノを弾き、眠り、また翌日を迎える。

表面上は平穏であり、本人もそれを不幸とは感じないかもしれない。

それでも、他人の目から見れば、そこには途方もなく大きな喪失がある。

愛する感情を失ったのではない。

愛していることを、二度と誰にも伝えられなくなった。

誰かを求める心を持ちながら、その心を生涯隠し続ける。

そう考えると、ラストで流れるピアノの音は、日常の再開ではなく、シャルリの残りの人生すべてを告げる音に聞こえてくる。


おわりに

『ピアニストを撃て』のラストで、シャルリは生きている。

彼は酒場へ戻り、ピアノを弾き、日常を続けていく。

その姿だけを見れば、人生はまだ終わっていない。

しかし彼の内側では、一つの人生が完全に閉じられたのではないか。

テレーズの自殺を前に、彼は声をかけることができなかった。

その後、誰かを愛することを避けて生きた。

レナに対しても関わらないつもりでいたが、心のどこかには、彼女と生きていけるかもしれないという密かな期待があった。

そして、そのレナも死んだ。

シャルリは今後、二度と誰かへの思いを表に出さないだろう。

人を好きになっても、言葉にはしない。

態度にも示さない。

相手を自分の人生へ招き入れない。

それが彼にとって幸福か不幸かは、他人には決められない。

ただ、誰かを愛する可能性を心の奥に埋めたまま、何事もなかったようにピアノを弾き続ける彼の人生は、外側から見れば壮大なバッドエンドにも見える。

レナが雪の上に倒れた瞬間だけが、この映画の悲劇なのではない。

その後も長く続いていくシャルリの人生そのものが、静かな悲劇として始まったのである。

出典:ameblo.jp

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