『刑事コロンボ』の中で、本作ほど評価が二極化するエピソードはない。熱烈なファンがいる一方で、シリーズ最低作の一つに挙げる声も根強い。その理由を探ると、二つの問題が絡み合っていることがわかる。
ひとつは、英国ミステリーへの「愛」が描写の精度を損なったこと。もうひとつは、その舞台として選ばれた物語が、シェイクスピアの悲劇の骨格を持っていたことだ。
あらすじ
ロンドンのロイヤル・コート・シアターで、往年の舞台俳優夫婦ニコラス・フレイムとリリアン・スタンホープが『マクベス』の公演を準備している。二人は落ち目で、資金繰りのためにスポンサーのサー・ロジャー・ハヴァシャムに取り入ろうとしていた。しかしリリアンの色仕掛けが夫婦の共謀だと見抜いたサー・ロジャーは激怒し、公演の打ち切りを宣言する。
出典:人事・労務コンサルティング HUREC 和田人事企画事務所
もみ合いの末、リリアンが投げたコールドクリームの瓶がサー・ロジャーの頭を直撃し、彼は即死する。偶発的な事故だった。しかし二人はキャリアへの打撃を恐れ、遺体を舞台衣装のトランクに詰め込んで隠蔽を選ぶ。
出典:NHK ONE
折しもロサンゼルスからスコットランドヤードへの研修でロンドンを訪れていたコロンボ警部補が、ダーク主任警視とともに現場に立ち寄る。コロンボはすぐに違和感を覚える。階段から転落死したという話なのに、胸ポケットの眼鏡が無傷だ。本棚の初版本がぞんざいに伏せて置かれている。やがて検視官が死後に遺体が動かされたことを確認し、事件は殺人捜査へと切り替わる。
夫妻の隠蔽工作はここから泥沼に入る。劇場の便利屋フェンウィックが誤ってサー・ロジャーの傘を持ち去り、それが蝋人形館に展示品として送られてしまう。傘の中にリリアンのネックレスから転がり落ちた真珠が残っているかもしれないと気づいた二人は、深夜の蝋人形館に忍び込んでようやく傘を取り戻す。
しかし今度は執事タナーに恐喝され、口封じのためにニックがタナーを殺害する。偶発的な加害者だった二人は、ここで冷酷な殺人者に変貌する。
コロンボは最後の賭けに出る。蝋人形館のサー・ロジャーの展示の前に夫妻を呼び出し、「ネックレスが壊れた夜、傘が開かれていたなら、真珠が一粒くらい落ちていたはずだ」と語る。
そして傘を開かせると、中から真珠が転がり落ちた。ニックは精神の均衡を失い、『マクベス』のセリフを呟きながら崩壊する。それを見たリリアンが「事故だったの。馬鹿なことをした」と自白し、幕が下りる。
ただし後に明かされるのは、コロンボが真珠を傘に弾き込んだという事実だ。自白を引き出すために、証拠を仕込んだのだった。
「愛するジャンル」という罠
本作の原案を書いたのは、シリーズのクリエイターであるリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンクだ。二人がアガサ・クリスティーをはじめとする英国古典ミステリーへの「ラブレター」として本作を構想したことは、関係者の証言からも明らかだ。
その熱意は画面のあちこちに刻まれている。舞台俳優、執事、格式ある紳士クラブ、ロンドンの霧と蝋人形館。これらは英国ミステリーが長年培ってきた記号の集積であり、本作はそれをひとつの作品の中に丁寧に並べた。
出典:suna8’s blog – はてなブログ
ところが、この丁寧さが裏目に出た。
英国の視聴者には戯画に映り、ロサンゼルスに慣れた視聴者には異質に映った。コックニー訛りの便利屋フェンウィックは笑いを誘う記号として機能しすぎ、犯人夫妻の演技は「大げさ」と評された。舞台装置が精緻であるほど、それが現実の場所ではなく「ジャンルの中のロンドン」だと露わになっていく。

オマージュとは対象への愛から生まれるが、その愛が強すぎると、対象の様式そのものを再現することが目的になってしまう。クリスティーの世界を再現しようとした結果、コロンボが本来持っているロサンゼルスの心理的リアリズムとの摩擦が生じた。ジャンルへの愛が、作品の地に足を奪った。
マクベスが構造として機能する理由
しかし本作をただの「失敗したオマージュ」として片付けるのは早い。物語の骨格を見ると、別の構造が浮かび上がる。
原題は Dagger of the Mind。マクベスが王を殺す前夜、幻の短剣を見る独白から取られている。罪悪感と野心が生み出した幻、現実と幻覚が溶け合う瞬間を指す言葉だ。この引用はタイトルの飾りではなく、物語の設計図だった。
ニックとリリアンの犯罪の軌跡は、マクベス夫妻の悲劇とほぼ重なる。野心に駆られた最初の殺人(マクベス夫妻はダンカン王、フレイム夫妻はサー・ロジャー)、その隠蔽のための第二の殺人(バンクォー/タナー)、そして精神の崩壊。リリアンは序盤、「こんなこと簡単よ」とレディ・マクベスのように冷静に主導し、ニックは次第に罪の重みに耐えられなくなっていく。
ラストでニックが錯乱しながら「明日、また明日…」とマクベスのセリフを呟く場面は、単なる引用ではない。彼が演じていた役の言葉が、現実の自分の崩壊を語り始めた瞬間だ。虚構と現実の境界が溶けるという、マクベスのテーマが劇中劇として成立している。
「舞台の人」が「現実」に敗れる
本作の深部には、パフォーマンスと現実の対立がある。ニックとリリアンは俳優として生きてきた人間で、危機に直面したときも「芝居」の文法で応答する。遺体を隠すのに道具立てをし、アリバイのセリフを練習し、悲嘆を演じる。
その「大げさな演技」は俳優陣のミスではなく、彼らのキャラクターが現実から遊離していることを体現している。彼らは「殺人を隠す人」を演じており、その状況に実際に置かれていない。
コロンボはその対極にいる。よれたコートと「もう一つだけ」。彼の武器は演技ではなく観察だ。眼鏡が無傷、本が伏せて置かれている。そうした些細な現実の歪みだけを拾う。「舞台の人」が構築した壮大な偽装劇を、現実に根ざした視点が静かに解体していく。
欠点と野心が同じ根を持つ作品
本作が評価を二分する根本的な理由は、その欠点と野心が同じ場所から生まれているからだ。英国ミステリーへの深い愛が、ステレオタイプの多用という批判を生んだ。マクベスの悲劇構造を取り込んだ野心が、「大げさすぎる」という印象を与えた。
それでも、本作はシリーズの中でも稀な問いを残している。コロンボは最後に証拠を仕込んだ。真実を暴くために、小さな嘘をついた。探偵として正しかったのか。倒叙ミステリーという形式が本来持っている「結末は最初から決まっている」という人工性と、その問いは不思議なほど響き合う。
愛するジャンルの文法に従いすぎた作品が、最後にそのジャンルの前提を問い返す。それが『ロンドンの傘』という作品の、静かな逆説だ。




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