大人になって読む『怪人二十面相』
正直に言うと、面食らった。『怪人二十面相』を読み始めたとき、それまで読んでいた江戸川乱歩の小説とは明らかに毛色が違うと感じたのである。「屋根裏の散歩者」や「心理試験」のような、じっとりとした人間の暗部を覗き込む筆致はそこになく、代わりにあったのは、小気味よく転がっていく冒険譚だった。なるほど、これは子供向けに書かれたものなのだ、と妙に冷静に納得してしまった自分がいる。
続く『少年探偵団』は、前作の終盤で結成された少年探偵団が序盤から本格的に活躍する物語である。面白いのは、前作でいったん捕らえられたはずの怪人二十面相が、何の説明もなく再び姿を現すことだ。
物語の中では、捕まった人物は「自分は二十面相の部下に過ぎない」と言い張っており、本物の二十面相はまんまと逃げていたことになる——という、いかにも変装の達人らしい煙幕の張り方である。東京で続発する誘拐事件と「呪いの宝石」の言い伝えをめぐって、明智小五郎と少年探偵団が再びこの怪人と対峙していく。
そのほとんどが連載という形式の中で進んでいく続きものであり、とりあえず最後まで読んだ、というのが正直な感想である。大人になった今の自分には、特に引っかかるところがない。これは由々しき事態だ、と店主としては苦笑するしかなかった。子供の頃、あれほどワクワクしながら頁をめくっていたはずなのに——
今になると、そのワクワク感もどこかに薄らいでしまったのかと、少し寂しい気持ちにもなる。今は第3作にあたる『妖怪博士』を読み進めているところだが、果たしてこの先、あの頃の興奮は戻ってくるのだろうか。
団体劇への転換——少年探偵団という”仕掛け”
しかし、冷静に読み返してみると、乱歩がこのシリーズで仕掛けたことの巧みさには、やはり感心させられる。『怪人二十面相』では、あくまで明智小五郎という名探偵が主役であり、少年探偵団は終盤に結成されるおまけのような存在だった。
ところが『少年探偵団』に至って、その立ち位置は逆転する。団長・小林少年の発案によるBDバッジが初登場し、探偵団そのものが序盤から物語を動かしていく主体へと格上げされているのである。
これは単なる続編の都合ではなく、明確な構成上の転換だったのだろうと思う。名探偵一人の知恵比べを見せる物語から、少年たちの集団劇へ——
読者である子供たちが、明智を遠くから尊敬するのではなく、小林少年やノロちゃんといった団員に自分を重ねられるようにした。
バッジという記号を与えられた瞬間、読者もまた「探偵団の一員になれる」という想像の扉が開かれる。あの頃の自分がワクワクしていたのは、事件の謎そのものより、案外こちらの仕掛けだったのかもしれない。
昭和十二年という時代の中で
そしてもう一つ、見過ごせないのが連載された時期である。『少年探偵団』が「少年倶楽部」に掲載されたのは昭和12年(1937年)。日中の情勢が緊迫し、戦争の足音が確実に近づいていた年だ。
そんな時代の中で、少年たちが「呪いの宝石」や連続誘拐事件の謎に挑み、変装の達人である怪人二十面相と知恵比べを繰り広げる——この娯楽性の高さは、むしろ時代の重さの裏返しだったのではないかと、店主としてはつい考えてしまう。
子供たちにとって、少年探偵団の物語は現実から少し離れた場所で安心して興奮できる、貴重な”逃げ場”だったのだろう。実際、このシリーズは太平洋戦争の影響で一時中断を余儀なくされ、戦後に再開された経緯がある。
娯楽が娯楽であり続けられる時代の有難さを、令和の喧騒の中でカフェを営む自分が今さら噛み締めることになるとは思わなかった。
捕まらない二十面相、薄れていく自分のワクワク
それにしても、結局二十面相は捕まらない。アジトを爆破して炎に紛れ、明智にあと一歩のところで取り逃がされる——このお約束の結末を読んだとき、子供の頃なら「次はどうなるんだ」と胸を高鳴らせていたはずなのに、大人になった今は「やっぱりね」という、いささか乾いた感想しか出てこなかった。
これは由々し事態である。物語の仕掛けが見えてしまうということは、自分がそれだけ物語の外側に立ってしまったということなのだろう。
ただ、不思議なのは、それでも次の『妖怪博士』へとページを進めてしまう自分がいることだ。ワクワク感そのものは薄れても、あの頃に確かに胸を熱くした記憶の輪郭をなぞる楽しみは、案外しっかりと残っている。
捕まらない二十面相のように、あの子供の頃の興奮も、完全には捕まえられないまま、こうして手の届かないところを身軽に逃げ続けているのかもしれない。それもまた、悪くない読書の在り方だと、今は思っている。

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