『魔の家』(1932)カーロフは喋らず、ホレースはポテトを勧める

アマゾンプライムで、モノクロのホラーが観たくなった。前回の『空飛ぶ生首』と同じ探し方である。

見つけたのが、1932年のユニバーサル映画『魔の家』。原題は『The Old Dark House』。

怖がるつもりで観た。けれど最後に残ったのは、怖さではなく「ここは笑っていいのか」という妙な居心地の悪さだった。

以下、結末に触れる。

目次

2時間がしんどい日に、72分のモノクロ

ここ最近、疲れているのか、2時間の映画を観るには力がいる。だから見やすい短めの映画を探している。『魔の家』は72分。ちょうどいい。

もうひとつ理由がある。僕が映画を好きになったきっかけは、ホラー映画だった。そして僕の中では、ホラー映画といえばモノクロである。

そこに主演がボリス・カーロフとくれば、観ない理由がない。

『フランケンシュタイン』は怖かった。子どもの頃は、とにかく怪物の造形が怖かった。

大人になって観直したときも、あの姿ははっきり覚えていた。ところが、そのとき怖かったのは怪物ではなかった。映画が進むにつれて、人間の怖さのほうが見えてくる。本当に恐ろしい映画だと思った。

あの怪物を演じた人を、もう一度観たかった。

ジェームズ・ホエールは、怖がらせきらない

監督はジェームズ・ホエール。『フランケンシュタイン』(1931)を大成功させた人で、本作はその直後に撮られている。ユニバーサルはホエールに大きな自由を与えた。撮影のアーサー・エディソン、美術のチャールズ・D・ホールも『フランケンシュタイン』を支えた顔ぶれである。

「フランケンシュタイン」(1931年)

その自由でホエールがやったのは、もう一度まっすぐ観客を怖がらせることではなかった。

原作はJ・B・プリーストリーの小説『Benighted』。第一次大戦後の幻滅を描いた、シリアスな物語だったという。ホエールは筋をほぼそのまま残し、トーンだけを黒い喜劇の側へ傾けた。

観ていると、それがよく分かる。緊張が高まったところで、必ず誰かが場違いなことを言う。怖さが積み上がる前に、少しだけ崩される。

当時の観客は、『フランケンシュタイン』のようなホラーを期待していた。ところが出てきたのは、怖いのか可笑しいのか分からない映画だった。興行は早々に失速し、業界紙『バラエティ』には「やや無意味」と書かれた。

90年以上たって観ている僕も、同じところで戸惑った。ただ、その戸惑いこそがホエールの持ち味なのだと思う。

あらすじ(結末まで)

嵐の夜、ウェールズの山道。フィリップとマーガレットの夫婦、友人のペンデレルが道に迷い、土砂崩れで先へ進めなくなる。三人は近くにあった古い屋敷に助けを求める。

扉を開けたのは、顔に傷のある、口のきけない執事モーガン(カーロフ)。屋敷には、神経質な主人ホレースと、耳が遠く信心深い姉レベッカが住んでいる。レベッカは「ベッドはない!」と泊めるのを嫌がるが、ホレースが渋々許す。モーガンは酒を飲むと危ない、とホレースは警告する。

そこへ、実業家のポーターハウス卿と、連れのグラディスも雨宿りにやって来る。

晩餐の席で、ホレースは客に「ポテトはいかがかね?」と勧める。やがて電気が消える。ランプを取りに二階へ上がったフィリップは、鍵のかかった部屋に気づく。その間に、酔ったモーガンがマーガレットを追い回す。戻ったフィリップが、ランプでモーガンを殴り倒す。

二階の奥には、102歳の家長ロデリックが寝ていた。彼は、鍵の部屋に長男ソウルが閉じ込められていること、ソウルが火をつけたがる危険な男であることを告げる。だが、酔ったモーガンがすでに鍵を開けていた。

危険な男・ソウル

ソウルは最初、穏やかに話す。しかし暖炉の薪をつかみ、カーテンに火を放つ。ペンデレルともみ合いになり、二人は踊り場から落ちる。ソウルは死に、ペンデレルは怪我を負う。

いくらか正気に戻ったモーガンが、ソウルの亡骸を優しく抱きかかえ、静かに二階へ運んでいく。

朝が来ると嵐はやんでいて、客たちは生きて屋敷を出る。ペンデレルとグラディスは、結婚を誓う仲になっていた。ホレースは、昨夜何もなかったかのように陽気に見送る。

カーロフは、ひと言も喋らない

ボリス・カーロフ

カーロフ目当てで観た身として、いちばん意外だったのはここだ。モーガンには台詞がない。

本作はカーロフが初めてクレジットのトップに立った作品である。冒頭には、彼が『フランケンシュタイン』の怪物を演じた俳優だと告げる文字まで出る。それなのに、ひと言も喋らない。

カーロフ本人もこの役には不満だったらしい。それがホエールとのしこりになり、次の『透明人間』ではクロード・レインズが起用された。

それでも、記憶に残るのはやはりカーロフだった。暴れる場面より、死んだソウルを抱えて階段を上がっていく姿のほうが残る。

顔に傷のある、いちばん怖そうな男が、最後にいちばん優しい手つきを見せる。屋敷の人間たちのほうが、よほど奇妙で危うい。『フランケンシュタイン』で感じた「怖いのは怪物ではなく人間のほうだ」という感覚が、ここで少しだけよみがえった。

怖いはずの場面の隣に、ポテトがある

『魔の家』は、「嵐の夜」「古い屋敷」「秘密を抱えた住人」という型を作った作品として語られることが多い。確かに、型はここにそろっている。

けれど観ていて感じたのは、型の怖さよりも、型を少し笑っているような感覚だった。

その笑いを一人で背負っているのが、主人のホレース・フェムである。演じたのはアーネスト・セシジャー。女性的な物腰に、神経質な落ち着きのなさ。口を開けば辛辣で、妙に気の利いたことを言う。

緊張した晩餐の席で、客に「ポテトはいかがかね?」と勧める。自分の唯一の弱点はジンだ、と言う。花を暖炉に投げ込む。どれも、怖い屋敷の主人がすることではない。

この映画のおかしなトーンは、ほとんどこの人が決めている。セシジャーはホエールのお気に入りの俳優で、のちに『フランケンシュタインの花嫁』でプレトリアス博士を演じている。そう聞くと、なるほどと思う。

ホレースだけではない。レベッカは「ベッドはない!」と叫ぶ。怖いはずの場面のすぐ隣に、どうにも可笑しい場面が置いてある。

だから怖がりきれないし、笑いきることもできない。その中途半端さが、観終わってからも残る。

ホレースとレベッカ

まとめ

『魔の家』は、ただの古いホラー映画として観るには少しもったいない作品だった。

嵐の夜、見知らぬ屋敷に人が集まり、奇妙な住人たちの姿が少しずつ見えてくる。設定だけなら、いかにも古典的な怪奇映画である。

しかし、不気味な空気の中に皮肉や黒いユーモアが混ざっている。登場人物たちの会話や振る舞いには滑稽さもあって、怖がればいいのか笑えばいいのか分からない場面が続く。その曖昧さが、この映画の魅力だと思う。

1930年代の映画らしい古さはある。大げさな身振りには、今の感覚だと引っかかる人もいるはずだ。ただ、影の使い方や屋敷の閉塞感も含めて、その古さには独特の味わいがある。今の映画とは違うリズムで迫ってくる。

整った名作というより、奇妙な余韻を残す映画である。怖がりたくて選んだ72分は、思っていたのとは違う形で、ちゃんと記憶に残った。

アマゾンプライムで探せば見つかる。2時間の映画はしんどい夜に、嵐の屋敷で、ジンとポテトの一夜をどうぞ。

 

 

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