江戸川乱歩の短編「指環」は、台詞だけで構成された奇妙な小品である。地の文はない。ト書きもない。AとBという二人の男が汽車の中で交わす会話だけが、紙面を埋めている。
読み始めた瞬間は、ただの世間話に見える。しかし数行も進むと、この二人がただの乗客ではないことに気づく。そして後半になると、読者は完全にひっくり返される。
この短編において、すべての仕掛けの核心にあるのが「蜜柑ひと袋」である。
蜜柑は三つの顔を持っている
物語の中で、Bは一袋の蜜柑を持って汽車に乗り込んでくる。貴婦人のダイヤの指環を掏った直後のことだ。
この蜜柑が、少なくとも三つの機能を同時に果たしている。
ひとつ目は親しみの演出である。BはAに蜜柑を勧める。見ず知らずの相手に果物を差し出すというこの行為が、Bを「人のいい旅人」に見せる。疑われる側の人間が、まず疑いを解除するための小道具として蜜柑を使う。
ふたつ目は注意の誘導である。車掌が来て身体検査が始まるとなったとき、Bは蜜柑の袋を窓から投げ捨てる。「指環を蜜柑の中に隠して、後で拾いに行くつもりだ」と周囲に思わせるための行動だ。実際、AはBの意図を読んで、停車後に密かに蜜柑を拾いに行っている。蜜柑は「偽の答え」として機能した。探偵小説でいう「レッド・ヘリング」──囮の手がかりである。
そしてみっつ目が、最も鮮やかな機能だ。蜜柑はAの注意をBから逸らすための煙幕でもあった。Aが蜜柑に気を取られている間に、Bは本当の指環をAの煙草入れの底にしのばせていたのである。蜜柑という囮を追ったAは、自分の腰に宝物を提げたまま改札を飛び出していった。
一袋の蜜柑が、親しみの道具であり、囮であり、煙幕であった。
小道具が物語を動かすとき
映画を観ていると、ときに「この小道具、やけに映り方が丁寧だな」と感じる瞬間がある。
黒澤明の「七人の侍」では、侍たちが食べる握り飯が印象的に描かれる。あの握り飯は単なる食事ではない。農民と侍の階級差を象徴し、三船敏郎演じる菊千代の出自を暴く伏線として機能する。小道具が、人間関係と物語の核心を一度に担っている。
乱歩の蜜柑も、それと同じ構造を持っている。蜜柑はただの果物ではない。人物の性格、事件の構造、そしてどんでん返しの鍵、そのすべてが一袋に詰め込まれている。
優れた小道具とは、舞台に「置いてある」のではなく、物語の中を「動いている」ものだと思う。蜜柑は汽車に持ち込まれ、AとBの間で消費され、窓から投げ捨てられ、線路の脇に落ち、拾われ、そして「ただの腐れ蜜柑だった」というオチへと転がっていく。その軌跡そのものが、この短編の構造である。
台詞だけの小品を読み終えて、しばらく蜜柑のことを考えた。
ただ、正直に言えば、読後にどこか消化不良の感覚が残った。
直前に読んでいたのが、同じ乱歩の「白昼夢」だった。あの作品には、理屈を超えた不快感と陶酔が同居していて、読み終えた後もしばらく頭の中に澱のように沈んでいた。乱歩の毒がじわじわと効いてくる、あの独特の後味である。
「指環」はその点で対照的だ。仕掛けは見事で、読み解く楽しさも確かにある。だが、謎が解けた瞬間に作品が完結してしまう。パズルのピースが揃ったような、きれいな終わり方である。それはそれで潔いのだが、「白昼夢」の読後に感じたあの暗い余韻──説明のつかない何かが胸に残り続ける感じ──がここにはない。
乱歩という作家の振れ幅の広さを、二作を続けて読むことで改めて実感した。蜜柑一袋の鮮やかな仕掛けを堪能しながら、それでもどこかで「白昼夢」の毒を引きずっていた自分がいた。

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