今日も乱歩を読む・・・いや聞く。車のハンドルを握りながら。
買い出しの道中、Audibleで「屋根裏の散歩者」を流した。片耳でナレーターの声を聞きながら、信号待ちのたびに物語の続きを待った。その夜、寝る前に電子書籍で同じ作品を読み返した。布団の中でスマホを傾け、眠気と戦いながら最後まで読み切った。
短編だから、できることだ。
物語の輪郭
主人公・郷田三郎は、学校を出ても定職に就かず、親の仕送りで生きている。酒も女も、あらゆる遊びに興味が持てない。下宿を転々とし、ただ時間を持て余している男だ。
そんな郷田が、素人探偵の明智小五郎と知り合ったことで「犯罪」に興味を持ち始める。浅草公園で意味のない尾行をしたり、暗号文をベンチに置いたり、女装して悪戯をしたり——犯罪の真似事で退屈を紛らわすようになる。しかしそれにも飽きた頃、郷田は新築の下宿「東栄館」に移る。
ある日、押し入れの天井板を外すと屋根裏に入れることに気づく。屋根裏は各部屋の仕切りがなく、節穴から同宿人たちの私生活が丸見えだった。郷田はたちまち覗き見に夢中になる。
そして郷田は、虫の好かない歯科医助手・遠藤が節穴の真下で口を開けて眠っているのを見るうちに、遠藤がかつてモルヒネで心中を図ったという話を思い出す。節穴から毒を垂らせば殺せる——そう気づいた瞬間から、郷田の「散歩」は殺意を帯びていく。
遠藤の部屋からモルヒネを盗み出した郷田は、何度も機会を窺い、ついに節穴と遠藤の口が一直線に重なる瞬間を捉えてモルヒネを落とした。死は自殺として処理された。完璧に見えた犯罪だった。
犯人の心理——退屈が人を壊すとき
この作品で乱歩が描きたかったのは、トリックではなく「退屈の危うさ」だと思う。
郷田には強烈な動機がない。遠藤への憎しみも、さほど深いものではない。ただ「虫が好かない」という程度の嫌悪が、暇と覗き見という行為の中で少しずつ殺意へと育っていく。退屈を埋めるために犯罪の真似事を始め、その延長線上に本物の殺人が滑り込んでくる。その移行があまりにも自然で、読んでいる側がぞっとするのはそのためだ。
郷田の異様さは、犯行後の心理にも表れている。罪悪感よりも、成功した高揚感が先に来る。自分だけが知っている秘密を抱えて日常に戻る感覚。しかし明智が現れてから、その均衡は崩れ始める。
明智が突きつける証拠は三つだ。自殺するはずの遠藤が目覚ましをかけていたこと、几帳面な遠藤がモルヒネの瓶を雑に扱っていたこと、そして——郷田が遠藤の死んだ日から煙草を吸わなくなったこと。
最後の一点が核心だ。モルヒネの瓶が煙草入れに落ち、中身が煙草にこぼれた。郷田はそれを意識していなかった。しかし身体は知っていた。無意識のうちに煙草が嫌いになっていたのだ。自分でも気づかない心理の動きを、明智に見透かされた瞬間、郷田の自意識は完全に崩れる。
頭で組み立てた完全犯罪が、自分の無意識によって崩される。乱歩の短編に繰り返し登場するこのパターンは、「賢い人間ほど自分の心を制御できない」という皮肉な真実を突いている。
粗いトリックが、なぜ許されるのか
ミステリーとして見ると、この作品には粗さがある。
明智が郷田を自白させるために使ったボタンはフェイクだったと自白後に明かされる。つまり煙草以外の論拠は、明智が即興で作り上げたものだ。
そして、自殺に見せかけようとした人間が目覚ましをかけるだろうか、という疑問もありがちで、現代のミステリー読者なら即座に首を傾げるところだ。乱歩自身もこの作品を傑作とは思っていなかったらしい。
それでも読後感は悪くない。むしろ心地よい。
なぜか。トリックではなく、語り口を読んでいるからだと思う。
この作品は犯人目線で進む。古畑任三郎を思い浮かべてほしい。あのドラマも犯人が最初からわかっている。視聴者は「どうせ捕まる」と知りながら見続ける。それでも面白い。なぜなら、謎解きではなく人間を見ているからだ。
乱歩の倒叙短編も同じ構造を持っている。犯人の心理、焦り、自意識の肥大と崩壊。そこに乱歩独特のねっとりとした語り口が絡みつく。トリックが粗くても、その「語られ方」の質感が物語を支えている。
隙間に読める、ということ
近年の小説は長すぎる。書店でベストセラーの棚を眺めると、400ページ、500ページは当たり前で、シリーズものになると読み切るまでに季節が変わる。忙しい日常の中で、そんな長距離走につきあう余裕は正直ない。だから気づけばビジネス書かエッセイばかり読んでいる。要点が明快で、どこで止めても迷子にならない。そういう「軽さ」を無意識に求めていたのだと思う。
乱歩の短編は、その「軽さ」を持っている。
車の中で聞いた乱歩は、不思議と風景に馴染んだ。買い出しの帰り道、夕暮れの国道を走りながら、耳の中では大正時代の東京の路地が広がっていた。現実と物語が緩やかに重なる、あの感覚。短編だからこそ生まれる濃度だと思う。長すぎる物語は、日常と並走できない。短編は、隙間に滑り込んでくる。
夜、布団の中で読み返したとき、トリックの粗さは気にならなかった。
眠くなったら止めればいい。どこで止めても物語は完結している。そのくらいのちょうどよさが、今の自分には必要なのだと気づいた。
完璧なパズルより、心地よい語り口。長大な叙事詩より、隙間に読める短編。乱歩がうっかり残してくれた「駄作」が、案外いちばん自分に合っていた。
そういうことが、たまにある。

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