騙されたかった私——江戸川乱歩「赤い部屋」と虚構への欲望

赤い光の中の七人

七人の男が、赤で統一された密室に集まっている。灯りはテーブルの上の大きなロウソク一本だけ。揺れる炎が壁を染め、男たちの顔に影を落とす。

江戸川乱歩の短編「赤い部屋」(1925年)は、この息が詰まるような舞台装置から始まる。集まっているのは、日常の退屈に飽き果て、「異常な興奮」を求める男たちである。その夜の主役は新入会員のT氏。彼はおもむろに語り始める——自分はこれまで99人を殺してきた、と。

あらすじを記しておく。

T氏の殺人は、直接手を下すものではない。藪医者の場所を教える、急行列車が来ていると嘘をつく、感電する避雷針に小便するよう子供を唆す。いずれも「不作為」に見える行為であり、法的にも道義的にも彼を縛るものは何もない。

そうして99人を屠ったT氏は、昨春の大規模列車脱線事故さえ自分の仕業だと嬉々として語る。しかしすでに殺人にも飽き、阿片で正気を保っている状態だと明かす。

聴衆である「私」たちが固唾を飲んでいると、給仕女が飲み物を運んでくる。T氏は突然ピストルを取り出し、女を撃つ。悲鳴、驚愕、混乱——しかしそれはおもちゃのピストルだった。T氏は笑いながら詫び、今度は女にそのピストルを渡して自分の胸を撃つよう指示する。銃声。T氏が倒れ、血溜まりができる。

2発目には本物の弾が込められていたのだ。100人目の犠牲者は自分自身——誰の罪にもならない完璧な幕引き。そう理解した瞬間、T氏は笑いながら起き上がる。給仕女も笑い転げている。すべては芝居だった。話の中身も、自殺も、血溜まりも。

電灯が点く。赤い幻想は一瞬で崩れ、みすぼらしい部屋だけが残る。


私はどんな結末を期待していたか

正直に言う。読みながら、私はT氏がいつ「本当の殺人」に踏み切るかを待っていた。

自殺という結末には、一瞬「なるほど」と思った。100人目が自分——確かに乱歩らしい倒錯した美学だ。しかしすぐに別の想像が頭をもたげた。いや、待て。T氏はこの場にいる7人全員を殺すつもりではないか。「手を下さない殺人」の名手である彼なら、どんなトリックを仕掛けてくるか。密室、ロウソク、赤い部屋——すべてが伏線に見えてくる。

そんな期待を胸に読み進めた結果が、あの「芝居でした」である。

あっけなかった。正直、そう感じた。


騙されたのは誰か

しかしここで立ち止まる必要がある。

私はいったい何に騙されたのか。T氏の嘘に? 違う。T氏の嘘は物語の中での出来事であり、私は最初からそれを「小説」として読んでいる。本当に騙されたのは、赤い部屋の雰囲気と、そこから無意識に期待した「それらしい結末」に、である。

ロウソク一本の赤い密室。退廃的な趣味を持つ男たち。99人を殺してきた告白者。これだけ揃えば、読者の頭には自然と「怪奇小説のお約束」が起動する。密室には秘密がある。告白者は最後に裁かれるか、あるいは新たな犯行に及ぶ。血が流れ、誰かが死ぬ。

私はその「お約束」に乗っかり、自分で物語の続きを先読みしながら読んでいた。乱歩はその期待を十分に育てた上で、電灯一つでそれをすべて消してみせた。


フィクションを「信じたかった」理由

ここに、この短編の本当の怖さがある。

T氏が語る99人の殺人譚は、読んでいて不謹慎なほど面白い。藪医者への誘導、天邪鬼な按摩(あんま)の転落死、子供の感電死——どれも残酷だが、その「手を下さない」巧妙さに、読者はある種の知的興奮を覚える。これは密室トリックや叙述トリックを楽しむのと同じ回路だ。

つまり私たちは、99人の死を「謎解きのピース」として消費していた。

T氏の告白が嘘だったと明かされたとき、安堵よりも先に「拍子抜け」が来たとすれば、それはすなわち——私たちが無意識に「本当に人が死んでほしかった」ということになる。

もちろん、これは現実の殺人を望む感情とはまったく異なる。探偵小説でトリックの解明を望み、ホラー映画で怪物の登場を待つのと同じ、純粋に娯楽としてのフィクションを求める欲求である。

「物語の中で」悲惨な結末が起きることを期待する——それ自体は、小説を読む行為に本来的に備わった感覚だ。しかしその欲求が満たされなかったとき、私たちは初めて「自分がそれを期待していた」ことに気づく。乱歩はその構造を、あの電灯一つで照らし出してみせた。

乱歩はそのことを、電灯一つで可視化してみせた。赤い光の中では美しく見えた欲望が、白い光の下でみすぼらしくさらけ出される。


読者という共犯者

「赤い部屋」が1925年に発表されてから100年が経つ。しかしこの小説が突きつける問いは、むしろ現代のほうが鋭く刺さる。

人が傷つく動画がSNSで拡散され、炎上を「見物」し、犯罪者の供述に興奮する。私たちは日常的に、フィクションと現実の境界を曖昧にしながら「刺激」を消費している。それを誰かのせいにはできない。T氏の告白を聞いて興奮していた「私」たちと同じように、私たち自身がその欲望の共犯者だからだ。

あっけない結末だった、と最初に書いた。しかし今は思う。

あっけなかったのは結末ではなく、自分の欲望があっさりと暴かれたことへの、照れ隠しだったのかもしれない。

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