太宰治が昭和21年(1946年)に発表した短編小説『嘘』。戦後の津軽を舞台にした本作は、一見すると「女の嘘の底知れぬ恐ろしさ」を男性目線から語ったホラーめいたエピソードに思えるかもしれない。
しかし、最後まで読み通すと、その印象はガラリと変わる。本作は、過酷な現実をしたたかに生き抜く女性の「防衛本能」と、自己欺瞞に満ちた男性の「滑稽な自意識(見栄)」が交錯する、見事な喜劇なのである。
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『嘘』の詳細なあらすじ(ネタバレ)
戦後、空襲で焼け出され津軽の実家に居候していた「私」(太宰自身を思わせる作家)のもとへ、町の名誉職に就いている同級生が訪ねてくる。
「私」が「男は嘘をつく事をやめて、女は慾を捨てたら、新しい日本の建設が出来ると思う」とこぼすと、名誉職の男は「それは逆だ。男が慾を捨て、女が嘘をつく事をやめるべきだ」と反論し、自身が体験した「身の毛もよだつような女の嘘」について語り始める。
名誉職の遠縁に、圭吾という気弱な青年がいた。彼が入隊する際、名誉職は吹雪の中を入営地まで付き添って見送った。しかし後日、警察署長から「圭吾が入隊せず脱走した」と知らされる。驚いた名誉職は、署長と共に圭吾の実家へ向かった。
家には、名誉職が「純真で心から尊敬できる」と高く評価していた圭吾の美しい妻がいた。名誉職が「圭吾はいないか」と尋ねると、妻は顔色一つ変えずに「ええ、おりません」と答える。だが、署長が敷地内の馬小屋の奥で隠れている圭吾を発見する。
妻は夫が隠れているのを知りながら、瞬き一つせず、いけしゃあしゃあと嘘をついていたのだ。その完璧な嘘に、名誉職はすっかり人間不信に陥ったと語る。
話を聞き終えた「私」は、ふとある可能性を思いつき、彼に問う。「そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」
名誉職は真面目な顔で「そんな事はありません」と否定したが、直後に小さな溜息をつき、こう付け加えた。 「しかし、うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです」 その言葉の正直な響きに、「私」は深く感心するのである。
考察1:圭吾の妻が放った「完璧な嘘」の正体は防衛本能である
名誉職の男は妻の嘘を「身の毛もよだつような恐ろしいもの」として語った。しかし、それはあくまで彼の一方的な解釈に過ぎない。
脱走兵という重罪を犯した夫を自宅に匿うというのは、当時の状況を考えればまさに命がけの異常事態である。そんな極限状態において、警察と名誉職を前にした彼女が顔色一つ変えずに「おりません」と言い放ったのは、決して悪女ゆえの冷酷さではない。家庭と夫を、そして自分自身の生活を守り抜くための、凄まじい「防衛本能」の発露である。
あるいは、名誉職という「世間」の象徴に対して、最後まで取り乱さず「立派な妻」を演じ切ろうとした、彼女なりの矜持とも読み取れるだろう。いずれにせよ、彼女は生きるために必死だったのであり、そこに男が入り込む余地はなかったのである。
考察2:露呈した「男の自意識」と自己欺瞞の喜劇
本作の真の面白さは、凄まじい防衛本能を見せた女ではなく、それに翻弄され、的外れな人間不信に陥っている名誉職の男の「滑稽さ」にある。
彼は圭吾の妻を「純真で尊敬できる」と理想化していた。いや、さらに踏み込めば、密かに彼女に対して男性としての好意を抱いていたのではないか。だからこそ、彼女の嘘に過剰に傷つき、「こんなに美人でも女は怖いから、私は相手にしないのだ」と、「私」に対して、そして何より自分自身に対して納得させるような言い訳を語っていたように見える。
しかし、「私」の「そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」という鋭い一言が、彼が必死に保っていた体裁を崩してしまう。少し気まずい空気が流れた後、彼は最後に「うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです」とポロリと暴露する。
この瞬間、彼が心の底で抱えていた「彼女は自分に気があるのではないか」「だから自分の妻と対立していたのではないか」という、男特有の痛々しいほどの自意識と見栄が見事に暴き出されるのである。女性同士の生々しい対立構造を理解しているようでいて、結局は自分の都合の良いようにしか解釈できていない男の限界が、この一言に凝縮されている。
結語:この解釈すらも「男の錯覚」かもしれないという複雑な余韻
ここまで、名誉職の男の言動を「彼女が自分のことを好きなのではないかという勘違い」であると結論づけてきた。しかし、この記事を書き進めるうちに、ひとつの違和感が拭えなくなってきた。
こういう解釈で本を読み終え、したり顔で分析している私自身もまた、名誉職と同じように「ただ、そう思い込んでいるだけ」なのではないか、という違和感である。実際のところ、圭吾の妻には微塵もそんな気はなかった可能性すらあるのだ。
少し私事になるが、若かりし頃、一番最初に付き合った女性との初デートでの出来事を思い出す。若気の至りで、「僕が付き合ってくれって言ったとき、好きだったからOKしてくれたの?」と尋ねてしまったことがある。すると彼女は笑って「いいえ、全然」と答えたのだ。「嫌いではなかったから」とりあえずOKし、そこから徐々に…という感覚だったらしい。
男という生き物は、どうにも都合よくできている。女性と目が合ったから、会話中によく腕を触るから、いつも隣に座るから、「彼女は絶対に自分のことが好きに違いない」と、いともたやすく勘違いをする。女性からすれば何も考えずに自然にやっている行動であっても、男は勝手な好意の文脈を読み取ってしまう。私自身も、過去に何度そうした勘違いを重ねてきたことか。
そう考えると、この『嘘』という作品に対し、「男の滑稽な自意識が見事に暴かれている」という結論で美しく片付けようとしているのは、あくまで男である私の、男としての視点(読解)に過ぎないのかもしれない。女性の読者がこの作品を読めば、圭吾の妻の心理や名誉職の滑稽さについて、また全く違った解釈を下すのだろう。
太宰治が描いた「嘘」の深淵を覗き込んだつもりが、結局は自分自身の「男としての限界」を突きつけられたような気がして、なんとも言えない複雑な気持ちにさせられるのである。


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