42万円の初版本より、父の書斎から出てきた写真集のほうが忘れられない

『鬼滅の刃』1巻の初版が42万円で落札された、という記事を読んだ。

漫画の初版本が高騰しているらしい。海外のコレクターが入ってきて、初版や未開封品に高い値段がつく。記事の中では、その値動きが「仮想通貨に似ている」と説明されていた。

たしかに、そういう面はあるのだと思う。

ビットコインも、漫画の初版本も、最後は「それに価値がある」と思う人がどれだけいるかで値段が動く。もちろん、初版本には数が限られているという現物としての希少性がある。後から同じものを増やすことはできない。人気作品の1巻初版となれば、欲しい人が増えれば値段が上がるのもわかる。

ただ、その記事を読みながら、僕は別のことを思い出していた。


本の価値は、値段だけでは決まらない。

そんな当たり前のことを、少し遠回りに思い出していた。

父が亡くなったあと、遺品整理をしたことがある。

父は小さな医院をやっていた。真面目で、あまり喋らない人だった。僕にとっては、今でも尊敬する人物である。

その父の書斎を整理していたとき、樋口可南子さんと大竹しのぶさんの写真集が出てきた。

少し驚いた。

父は、そういう写真集を見るようなタイプには見えなかった。もちろん、見たからといって何かおかしいわけではない。ただ、子どもから見ていた父の印象とは、少し違っていた。

へえ、こんなものも読むんだ。

そのくらいの小さな驚きだった。

でも、その小さな驚きは、今でも妙に残っている。

父にも、僕の知らない時間があったのだと思った。医院の先生としての父、家の中であまり喋らない父、真面目な父。その奥に、ひとりの男としての父がいたのだろう。

子どもは、親を「親」として見てしまう。

父親は父親であり、母親は母親である。けれど、当たり前だが、親にも若い時代があり、自分だけの関心があり、人には見せない楽しみがある。

遺品整理で出てきた写真集は、そのことを少しだけ教えてくれた。


写真集といえば、もうひとつ思い出すものがある。

宮沢りえさんの『Santa Fe』である。

あの写真集が出た頃、僕は宮沢りえさんとほぼ同い年だった。だから、当然興味があった。今の若い人には伝わりにくいかもしれないが、当時の『Santa Fe』は本当に大きな話題だった。

父の医院には、取引している薬屋さんが出入りしていた。その薬屋さんに頼んで、『Santa Fe』を入荷してもらっていた。

僕も見せてもらう約束をしていた。

ところが、その写真集は医院の待合室に置かれていたせいか、2日で行方不明になった。

誰が持っていったのかは、今でもわからない。

ただ、それだけ人を引きつける力があったのだと思う。

もちろん、持っていった人がいたのなら、それはよくない。けれど、今となっては、その出来事も含めて、あの時代の空気のように記憶に残っている。


本というものは、不思議である。

紙に印刷され、表紙があり、ページをめくる。ただそれだけのものなのに、人の好奇心や欲望や記憶を、妙に強く動かすことがある。

『鬼滅の刃』の初版本が42万円になるのも、そういうことなのだろう。

それを読みたいだけなら、今はいくらでも読む方法がある。電子書籍もあるし、重版された単行本もある。けれど、初版本でなければならない人がいる。未開封でなければならない人がいる。最初に世に出た一冊であることに価値を見いだす人がいる。

その気持ちは、少しわかる。

ただ、僕にとっての本の価値は、そこだけではない。

遺品整理では、いろいろなものを捨てた。

残しておけるものには限りがある。すべてを取っておくことはできない。必要なもの、そうでないものを分けて、処分していく。人が生きてきた痕跡を整理する作業は、思っていた以上に静かで、少し重いものだった。

それでも、父の書斎から出てきた樋口可南子さんと大竹しのぶさんの写真集2冊は、今でも僕の本棚の隅にひっそりとある。

高く売れるから残しているわけではない。

値段を調べたこともない。

もしかすると、古本としてはそれなりの値段がつくのかもしれないし、そうでもないのかもしれない。正直、どちらでもいい。

その2冊は、父の知らなかった一面を少しだけ残してくれている。

だから捨てられなかった。


本には、いくつかの価値がある。

市場がつける価値がある。初版かどうか、帯があるかどうか、状態がいいかどうか、未開封かどうか。そこにコレクターが集まり、価格が上がる。海外勢が入ってくれば、相場はさらに変わる。仮想通貨のように、熱気で値段が動くこともある。

一方で、その人だけが持っている価値もある。

誰からもらった本なのか。どの時代に読んだ本なのか。どんな気持ちのときに出会った本なのか。誰の本棚にあった本なのか。

そういう価値は、外からは見えにくい。

メルカリにも、オークションにも、数字としては出てこない。

でも、本人にとっては、そちらの方がずっと大きいことがある。

42万円の初版本は、たしかにすごい。

一冊の漫画にそれだけの値段がつくというのは、今の時代らしい話だと思う。日本の漫画が世界中で読まれ、コレクションの対象になり、投資のように扱われる。それはそれで面白い現象である。

けれど、自分の本棚の隅にある2冊の写真集も、僕にとっては別の意味で価値がある。

父が亡くなったあと、いろいろなものを捨てた。

それでも、その2冊は残った。

父が何を思ってその写真集を買ったのかはわからない。どのページを見たのかも、どんな気持ちで本棚に置いていたのかもわからない。

でも、わからないまま残っていることにも、意味がある気がする。

本は、読むためだけにあるのではない。

ときには、その人の気配を残すものでもある。

誰かが持っていた本。誰かの書斎にあった本。捨てることができずに本棚の隅に残った本。

そういう一冊には、市場価格とは違う価値がある。

『鬼滅の刃』の初版本に42万円の値段がつく時代である。

けれど、本の価値は、値段がついた瞬間だけに生まれるわけではない。

誰かを思い出したときにも、本の価値は立ち上がる。

父の書斎から出てきた2冊の写真集は、今も僕の本棚の隅にひっそりとある。

たぶん、これからもそこにあると思う。

42万円の初版本より、僕にはその2冊のほうが忘れられない。

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