独裁者を笑え――『担へ銃』から『独裁者』へ、チャップリンが22年かけて完成させた「権力への嘲笑」

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はじめに

1918年10月、第一次世界大戦の休戦協定締結まで残りわずか数週間という時期に、チャールズ・チャップリンの短編映画『担へ銃』が公開された。その22年後の1940年、チャップリンは長編トーキー映画『独裁者』を世に送り出す。

二作品の間には二つの世界大戦という深淵が横たわっているが、その核心には一本の細い糸が通っている。権力者を「笑いものにする」という表現行為の系譜だ。

チャップリンは『担へ銃』で何かを発見した。それは、どんな威厳ある独裁者も、喜劇の文法に引き込んでしまえば「いとも簡単に崩れる」という事実だった。


あらすじ

訓練キャンプで落ちこぼれの新兵チャーリーは、泥だらけのベッドに倒れ込んで眠りにつく。夢の中でチャーリーはフランスの西部戦線へ飛び込み、水没した塹壕で格闘しながら、強烈な臭いのリンバーガーチーズを毒ガス弾代わりに敵陣へ投げ込み、たった一人で13人のドイツ兵を生け捕りにするという離れ業をやってのける。

出典:www.amazon.co.jp

やがてチャーリーは「木に変装して敵陣を歩く」という奇策で捕虜になった戦友を救出し、砲撃で半壊した民家に匿われていたフランス娘(エドナ)と心を通わせる。

物語のクライマックスでは、チャーリーがドイツ軍将校に変装して、ドイツ皇帝(カイザー・ヴィルヘルム二世)、皇太子、ヒンデンブルク元帥の一行を自動車ごと味方の陣地へ拉致してしまう。割れんばかりの喝采を浴びる瞬間、チャーリーは戦友に叩き起こされる。すべては夢だった。彼は相変わらず、訓練キャンプの冴えない新兵のままだ。


カイザーを「間抜け」にすること

本作で最も大胆な選択は、ドイツ皇帝を「とてつもなく権威があるが、いとも簡単に騙されて拉致される滑稽な人物」として描いた点だ。

皇帝は傲慢に胸を張り、大仰な仕草で威厳を演じようとする。しかしチャップリンの喜劇の文法の前では、その威厳こそが笑いの材料になる。大きく振る舞えば振る舞うほど、転倒したときの落差は大きくなる。カイザーは「権威の記号」を身にまといながら、それを支える実質的な力を何ひとつ持っていない存在として描かれる。

当時、戦時中の映画で敵国の最高権力者をこれほど露骨にパロディ化した作品はなかった。チャップリンに製作中止を勧告した知識人たちが恐れたのは、まさにこの「神聖を冒涜する笑い」の過激さだったのだ。

しかしチャップリンは確信していた。笑いは、重い愛国心の説教よりも、はるかに強く大衆の心に届く。そして、笑われた権力者は、その瞬間に「絶対的な存在」ではなくなる。


22年後の再演――ヒトラーという「もう一人のチャーリー」

出典:アップリンク京都 – UPLINK

1940年、チャップリンが『独裁者』でヒトラーを演じることを決めた背景には、奇妙な偶然がある。

チャップリンの代名詞であるリトル・トランプの「四角いちょびひげ」と、ヒトラーが採用した「歯ブラシ髭」は、ほぼ同じ形をしている。チャップリンは自伝でこの事実に触れ、「あの男は私のひげを盗んだ」と皮肉めいた表現を残している。二人は同じ1889年生まれでもある。

チャップリンは『独裁者』で、独裁者ヒンケル(ヒトラーの戯画)と、彼にそっくりな貧しいユダヤ人床屋チャーリーという二役を演じた。

出典:シネマの流星 – はてなブログ

物語の終盤、床屋が独裁者に間違えられてスタジアムで演説を行うという設定は、『担へ銃』で新兵チャーリーが将校に成りすましてカイザーを拉致する構造と本質的に同じだ。小さな者が権力の記号を借用し、権力者の代わりを務める――その逆転が笑いの核心にある。

だが、『独裁者』が『担へ銃』と決定的に異なるのは、最後に床屋が直接カメラを見つめて語りかける、映画史上最も有名な演説場面だ。「君たちを機械にしてはいけない。機械には心がない。憎悪しかない。」チャップリンはここで、笑いを捨てて直接語りかけることを選んだ。22年間の沈黙を破って。


笑いの有効性と限界

出典:100Chaplin.com | チャーリー・チャップリンの世界

権力者を笑いものにするという表現行為は、どこまで有効なのか。

『担へ銃』公開時、チャップリンは戦争が「まだ終わっていない」状況の中で映画を公開した。笑いは確かに士気を支えたかもしれないが、西部戦線で死んでいった兵士の数は変わらなかった。

『独裁者』公開時、ヒトラーはすでにポーランドを侵攻し、ヨーロッパは戦火に包まれていた。チャップリン自身、後年「もしあの時、強制収容所の実態を知っていたら、映画は作れなかった」と述べている。笑いは、笑いが届かないところでは無力だ。

しかしその一方で、笑いにしか持てない力もある。演説も論文も法律も、人々の心の奥深くにある「権力者への畏怖」を解除することはできない。だがチャップリンのコメディは、スクリーンの前に座った全員に、一瞬だけその解除を体験させた。カイザーが間抜けに見えた瞬間、ヒトラーが道化に見えた瞬間、観客は「この人物を恐れる必要はない」という感覚を得る。その感覚は、どんな論理的な反論よりも先に人の体に届く。


おわりに

出典:JustWatch

『担へ銃』でチャップリンが発見したのは、「独裁者を笑いの舞台に引きずり込むこと」の可能性だった。カイザーを木の変装をした一兵卒に拉致させるという、完全にばかげたアイデアの中に、権力の虚飾を剥ぐ力があった。

その発見を彼は22年間、温め続けた。ヒトラーという、あの男が現れるまで。

笑いは万能ではない。しかし、笑いなしでは崩せないものがある。チャップリンの二作品は、その両方を正直に示している。1918年の夢オチの苦さと、1940年の演説の切実さは、どちらも同じ問いへの答えだ。権力者に向けて、人間はどんな武器を持てるか。

チャップリンの答えは、最初から一貫していた。笑い、そして言葉だ。

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