三百年を超える灯り ― 弁天島花火に重ねる私の記憶

広島県福山市鞆の浦、弁天島。潮の香りと波の音が響くこの小さな島に、毎年5月の最終土曜日、約2,000発の花火が夜空を彩る。弁天島花火大会は、単なる夏の風物詩ではない。江戸時代から続く、海上安全を祈る信仰と人々の賑わいが、時代を超えて息づく祭りだ。

出典:bentenjima-hanabi.jp

その起源は古い。弁天島(百貫島)に祀られる弁財天を奉る弁天堂を中心に、旧暦4月頃に行われた「弁天祭」が原型である。植木市が立ち、灯籠が海に流され、そして「煙火祭」と呼ばれる花火が夜を焦がした。

鞆の浦は古くから潮待ちの港として栄え、船乗りたちは航海の無事を弁財天に願った。福山市重要文化財である中村家文書には、天保2年(1831年)の記録が残る。福山藩の家老たちが対潮楼から花火を眺め、城下からも多くの見物客が押し寄せたという。

当時すでに、この花火は地域の大切な行事として定着していた。江戸中期から数えれば、三百年以上の歴史を重ねてきたことになる。

弁天島
出典:Wikipedia

戦後、現代的な花火大会として形を整え、新暦の5月最終土曜日に移った今も、その本質は変わっていない。オープニングで披露される「鞆の浦アイヤ節」のリズミカルな調べは、港町の生活と信仰を今に伝えている。水面に映る花火の美しさは、かつて船乗りたちが見たであろう同じ光景を、私たちにも分かち与えてくれる。

しかし、時代は確かに移り変わった。

私が子どもの頃、昭和の花火大会は今とは随分と違っていた。観覧席などという気の利いたものはほとんどなく、海側の堤防は人で埋め尽くされていた。ブルーシートを敷き、家族や近所の人々が肩を寄せ合い、まるで「芋を洗う」ような大混雑。

すぐ横では屋台が煙を上げ、たこ焼きや焼きそば、りんご飴の甘い匂いが夜風に混じっていた。危険も多かっただろうが、それでも誰もが自由に場所を取り、笑い声と歓声が波のように広がっていた。あの熱気と無秩序な賑わいは、懐かしく、時に胸が熱くなる。

出典:広島ニュース 食べタインジャー

今は違う。安全への配慮から観覧席が設けられ、海側の堤防には立ち入り制限がかけられる。混雑を緩和し、事故を防ぐための当然の措置だ。

50を過ぎた私にとって、あの「芋を洗う」ような人混みは正直、苦手になった。仕事の疲れもあり、肌を寄せ合う喧騒の中にいるより、静かに椅子を一つ持ち出して夜風を浴びながら花火の音を聞いてる方が、ずっと心地よい。

花火の音が響くたび、遠い昭和の記憶がよみがえるが、それを懐かしみながらも「今の時代は仕方ない」と素直に思える。むしろ、それが悪いことだとは感じない。

花火は変わらない。空に咲き、波に溶ける光の瞬きは、江戸の船乗りたちの祈りを、昭和の子どもたちの興奮を、そして令和の私の静かな感慨を、等しく照らしてくれる。賑やかな群衆の中でも、一人静かに夜風に吹かれながらでも、そこに在るのは同じ弁天島の物語だ。

この花火大会は、ただの娯楽ではない。港町の歴史と信仰、そしてそれぞれの人生の記憶を重ね合わせて、毎年新しく生まれ変わる。

出典:鞆物語

一週間後の5月30日(土)、私はきっと一人、椅子に腰かけて、潮風に包まれながら花火の音を聞いてるだろう。

遠くに聞こえる人々の歓声に耳を傾けながら、心の中でそっと、昭和の自分と、江戸の先人たちに語りかける。

「ありがとう。そして、今年も無事に、きれいに上がりますように。」

そんな夜が、これからもずっと続いてほしいと願う。

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