ジョーダン・ピールの「nope/ノープ」は、観ている最中より、観終わってからじわじわ効いてくる映画だ。最初はUFOスリラーに見える。途中から怪獣映画の顔を見せる。けれど最後に残るのは、宇宙人の恐怖よりも、「人はなぜ見たがるのか」「なぜ撮りたがるのか」「なぜ何でも見世物にしてしまうのか」という、あまり気分のよくない問いである。ジョーダン・ピール自身、本作を「スペクタクルへの依存」や「注意そのものの毒性」を掘り下げた作品だと語っている。
出典:CINEMA MODE
しかもこの映画は、かなり意地が悪い。観客を怖がらせるだけでは終わらない。怖がる観客の欲望そのものを、映画のなかでじっと見返してくる。空を見上げる話でありながら、実際には地上の私たちの視線のほうが裁かれている。だから『NOPE』は、単なるホラーでも、単なるSFでもない。映画についての映画であり、ショービジネスについての映画であり、もっと言えば「見る」という行為の倫理についての映画だ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 邦題 | NOPE/ノープ |
| 原題 | Nope |
| 公開年 | 2022年 |
| 製作国 | アメリカ |
| ジャンル | SF/ホラー/ミステリー |
| 監督・脚本・製作 | ジョーダン・ピール |
| 主演 | ダニエル・カルーヤ、キキ・パーマー、スティーヴン・ユァン |
| 共演 | マイケル・ウィンコット、ブランドン・ペレア、キース・デイヴィッド |
| 製作会社 | Universal Pictures、Monkeypaw Productions |
| 上映時間 | 130分 |
| レイティング | R |
| 公開日 | 2022年7月22日(アメリカ) |
『NOPE/ノープ』のあらすじ
映画の冒頭で、観客の記憶にもっとも強く焼きつくのは、ゴーディ事件の悪夢である。血まみれのチンパンジーがセットの中にいて、倒れている少女の足先をつつく。まるで「死んでいるのか」を確かめているような、あまりにも不吉な仕草だ。この嫌なイメージが、映画全体の底に沈殿する毒を先に観客へ飲ませる。『NOPE』は、空の怪物の話が始まる前から、すでに“見世物にされたものの逆襲”を予告しているのである。
物語の舞台は、カリフォルニア州アグア・ダルセ。ヘイウッド家は、映画やCMに馬を貸し出す牧場「Haywood Hollywood Horses」を営んでいる。ある日、父オーティス・ヘイウッド・シニアが空から落ちてきた硬貨のような物体によって死亡する。事故として片づけられるが、その死はあまりに奇妙で、空の上に説明できない“何か”がいることを予感させる。
その後、牧場を継ぐのは息子のOJと娘のエメラルドだ。OJは無口で、馬の扱いには長けているが、営業や人付き合いが苦手な男。エメラルドは対照的に饒舌で、人前に出る才能があり、話を回すのがうまい。しかし父を失ったあと、牧場の経営は苦しくなり、兄妹は映画産業の片隅でじりじり追い詰められていく。
やがて牧場の周囲では奇妙な現象が頻発しはじめる。電気が乱れ、馬が異常に怯え、空には不自然に動かない雲が浮かぶ。OJとエメラルドは、防犯カメラ店の店員エンジェル・トーレスの助けも借りながら、上空に潜む何かの正体を探ろうとする。
彼らは最初、それをUFO、つまり“宇宙船”だと考える。しかしOJは、馬の反応や空の気配から、それが乗り物ではなく、もっと原始的な“捕食者”ではないかと察知していく。
一方、近隣には「Jupiter’s Claim」という西部劇テーマパークがある。その経営者が、元子役のリッキー・“ジュープ”・パクだ。ジュープはかつて人気シットコム『Gordy’s Home』に出演していたが、撮影中にチンパンジーのゴーディが暴走し、出演者やスタッフを襲う惨劇のただ中で生き残った人物でもある。彼はその過去を、トラウマとして処理する代わりに、どこか“特別な体験”として抱え込んでいる。
やがて兄妹は、空にいる存在が“宇宙船の形をした生物”であることを知る。OJはその怪物を、かつての馬の名から「ジーンジャケット」と呼ぶようになる。ジーンジャケットは空を泳ぐ巨大な捕食者であり、目を合わせたものを襲い、人間も馬も丸ごと吸い上げてしまう。
ジュープはこの存在をショーに利用しようと考え、観客を集めて“奇跡”を売ろうとするが、そのショーは破滅する。ジーンジャケットは観客ごとジュープを呑み込み、見世物は観客席ごと捕食される。
出典:Green – JPN.COM
そこから映画は、未知の怪物を“撮る”話へ移っていく。OJとエメラルド、エンジェル、そして老いた撮影監督アントラーズ・ホルストは、ジーンジャケットの決定的映像を狙う。だがこの怪物の近くでは電子機器が使えない。そこで彼らは、手回しのアナログ撮影機や井戸型の古い写真装置まで持ち出し、怪物を記録しようとする。
クライマックスでは、OJが馬に乗って囮となり、エメラルドがテーマパークへ向かい、巨大な“Kid Sheriff”バルーンを空へ放つ。ジーンジャケットはそれを吸い込み、内部で破裂させてしまう。エメラルドは最後の瞬間、古い写真装置でその姿を記録する。空の怪物は倒され、兄妹は生き残る。しかし映画が本当に残すのは、怪物退治の爽快感ではない。誰が記録され、誰が歴史に残り、誰が見世物にされ、誰がその代価を払うのかという、かなり重い問いのほうである。
考察|ゴーディ事件は“サブエピソード”ではなく、映画全体の設計図

ゴーディの惨劇は、一見すると本筋から外れた異物のように見える。空の怪物の話をしている最中に、突然、シットコムの撮影現場が血まみれになるからだ。しかし実際には、あの場面こそが映画全体の設計図になっている。ジョーダン・ピール自身、ゴーディのシークエンスを「搾取について」「業界への怒りについて」の場面だと説明している。つまりあれは、チンパンジーの異常行動ではなく、見世物にされてきた存在の反撃として読むべき場面なのだ。
ここで大事なのは、ゴーディもジーンジャケットも“悪意”で動いているわけではないことだ。どちらも野生であり、捕食や衝動に従っているだけだ。恐ろしいのは怪物ではない。怪物をショーにしようとする人間の側である。『Gordy’s Home』では、チンパンジーが家族向けシットコムの一部として無害に消費されていた。Jupiter’s Claimでは、ジーンジャケットが“奇跡のショー”として観客の前に引きずり出される。その構図は同じだ。つまり映画は前半で“小さな見世物の崩壊”を描き、後半で“巨大な見世物の崩壊”を繰り返しているのである。
ゴーディ事件と本編の対応関係
| ゴーディ事件 | 本編での反復 | 意味 |
|---|---|---|
| 訓練動物がテレビの笑いのために置かれる | ジュープがジーンジャケットをショーにする | 野生の商業化 |
| セットの安全神話が崩れる | テーマパークの観客席が丸ごと呑まれる | 制御幻想の崩壊 |
| 生還者ジュープが“特別な絆”を誤信する | ジュープがジーンジャケットも扱えると思う | トラウマの誤読 |
| 惨劇が記念室で商品化される | 怪物が“オプラ・ショット”として狙われる | 悲劇のコンテンツ化 |
| 動物・子役・スタッフが業界に消費される | ヘイウッド家の労働や歴史の抹消が浮上する | エンタメ産業の搾取 |
ジュープは“被害者”でありながら、構造の再生産者でもある
ジュープの人物像が厄介で面白いのは、彼が単なる愚かな興行主ではなく、一度は“見世物にされた側”の人間だという点だ。彼は子どもの頃、シットコムのなかで消費され、ゴーディ事件の唯一の生還者としてトラウマを背負った。にもかかわらず、大人になった彼はテーマパークを経営し、今度は別の存在を見世物にしようとする。
傷ついた者が、必ずしも構造を疑う側に回るとは限らない。むしろ傷が深いほど、その仕組みに同化してしまうことがある。ジュープはその痛ましい実例だ。
スティーヴン・ユァンは、ジュープについて、幼い頃に他人から“どういう存在か”を決められてしまうことが人生に何をもたらすかを考えながら役作りしたと話している。つまりジュープは、自分自身で育ったというより、他人の期待や投影の総和として育ってしまった人物だ。だから彼はトラウマを自分の内側で消化できない。かわりにそれを“語れる逸話”や“特別な経験”として保存し、記念室で陳列し、ついにはショーの燃料にしてしまう。
岡田斗司夫が触れた「大空の恐怖」と『NOPE』のつながり
岡田斗司夫は『NOPE』を評した動画のなかで、この映画のアイデアにコナン・ドイルの「大空の恐怖」を重ねている。さらに、M・ナイト・シャマラン的な“何かすごいことが起こりそうで、起きてみると少し拍子抜けする感じ”にも近いと述べ、全体としては期待ほどではなかったが、ラストはかなり盛り上がったと評していた。この見立ては意外に重要だ。なぜなら『NOPE』はたしかに、古典的な“空の怪物譚”の系譜にいる映画だからだ。
「大空の恐怖」は1913年の短編で、血まみれのノート断片から、高空飛行士ジョイス=アームストロングの最期が語られる。高高度に挑んだ飛行士たちが不可解な死を遂げるなか、彼は上空へ向かい、“空のジャングル”とでも呼ぶべき未知の生態系を発見する。そこには巨大なゼラチン状、クラゲのような怪物たちが棲んでおり、それが飛行士たちを死に追いやっていた。
そして彼のノートは、「43,000フィート。私はふたたび地表を見ることはないだろう。下に3体いる。神よ助けたまえ。なんという恐ろしい死だ」という絶望的な一文で終わる。
この要約だけでも、『NOPE』との共通点はかなり濃い。空に棲む未知の生物、クラゲめいた造形、上空を“未知の自然領域”とみなす発想、証拠を持ち帰ろうとする人間の欲望。
けれど『NOPE』が面白いのは、ここに映画産業批評とスペクタクル依存を接続したところだ。ドイルの物語では空は未知の生態系だった。ピールの映画では、そこへ「撮りたい」「売りたい」「話題にしたい」という現代的な欲望が持ち込まれる。つまり『NOPE』は、古い怪奇譚に現代のメディア社会を寄生させた映画でもある。
ジュープが“アジア系元子役”であることの複雑さ
この映画でジュープがただの元子役ではなく、韓国系アメリカ人として描かれている点も見逃せない。スティーヴン・ユァンは別のインタビューで、自分はアジア系アメリカ人だが、そのラベルを外部の期待どおりに演じることには関心がないと話している。
そうした発言を踏まえると、完成した映画のジュープは“白人中心のテレビ空間に取り込まれたアジア系子役”として読むことができる。
『Gordy’s Home』の構図をよく見ると、白人家庭のシットコムのなかに、アジア系の少年とチンパンジーが配置されている。
どちらも“少し異質で、だからこそ可愛く、面白く、消費しやすい存在”として置かれている。だからゴーディがジュープに手を差し出すあの瞬間は、単なる動物の気まぐれ以上のものに見えてくる。
同じショーのなかで利用されていた者同士の、一瞬の接触。もちろんそこに安易な友情を見るのは危険だが、少なくともジュープがそれを特別な記憶として抱え込んだ理由はわかる。
しかしジュープは、その体験から“搾取される側”の倫理を学ばない。むしろ彼は大人になってから、西部劇テーマパークを経営し、馬を使い、ジーンジャケットをショーにしようとする。ここがこの人物の皮肉だ。
かつてハリウッドに利用されたアジア系子役が、今度は別の存在を利用する側に回る。しかも西部劇という、アメリカ神話の中心装置の運営者としてである。白いアメリカ神話に取り込まれ、そのルールを内面化してしまった人物としてのジュープ。この複雑さが、彼を単純な悪役にも、単純な犠牲者にもしていない。
ここでヘイウッド家との対比が鮮やかになる。ヘイウッド家は、映画史から消された側として、自分たちの場所を取り戻そうとする。一方ジュープは、見世物にされた側だったのに、その構造を再生産してしまう。同じく周縁化されうる立場から出発しながら、片方は奪還へ、片方は同化へ向かう。この差こそが『NOPE』の苦みである。
シャマランっぽさは弱点か、それともピールの皮肉か
岡田斗司夫が指摘した“シャマランっぽさ”も、かなり腑に落ちる。『NOPE』は序盤で、不穏さと期待を長く育てる。何かが空にいる、でもまだよくわからない。この“わからなさ”の持続はたしかに怖い。ところが後半になると、映画は比較的はっきりとした怪物対決へと移行し、恐怖はスペクタクルへと変質する。そこで「少し興ざめした」と感じる人がいても不思議ではない。
ただ、私はこれを単純な欠点だとは思わない。むしろピールは、観客が“畏怖”から“消費”へ移っていく心の動きそのものを映画に組み込んでいるのではないか。
最初は怖かったものが、正体が見えた瞬間から「撮れる対象」「倒せる対象」「ショーになる対象」に変わってしまう。その変質こそが、この映画の批評対象なのだろう。
だから終盤の爽快感は、単にホラーが弱くなった結果ではなく、私たち自身が怪物を娯楽として受け入れてしまう瞬間の皮肉でもある。
締め|『NOPE』は“空の怪物”の映画である前に、“見世物にされた者たち”の映画
『NOPE/ノープ』は、空に棲む未知の怪物を描いた映画である。だが、それだけでは終わらない。ゴーディは見世物にされた動物の怒りであり、ジュープは見世物にされた子どもが構造を内面化してしまった姿であり、ヘイウッド家は映画史から消された側として、ようやく自分たちの居場所を取り返そうとする人たちだ。
そこへコナン・ドイルの「大空の恐怖」のような古い怪奇譚の血が流れ込み、さらに現代のメディア社会の病が重なることで、『NOPE』はただのUFO映画ではなく、“見ること”の倫理を問う映画になっている。
結局、この映画が本当に問いかけているのは「空に何がいるのか」ではない。もっと嫌な問いだ。
あなたは何を見ているのか。いや、何を見世物にしているのか。
その問いが残るから、『NOPE』は一度観て終わる映画ではない。ラストの爽快さに少し酔いながら、あとからじわじわと、自分の視線そのものが試されていたことに気づかされる。そういう映画は、やはり強い。



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