宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュを読んでいて、どうしても自分のこれまでの仕事の時間が重なって見えてくる。
ゴーシュは楽団のセロ弾きである。
しかし、彼はうまく弾けない。指揮者には叱られ、仲間からも遅れている。
ひとりで練習しても、なかなか上達しない。
ここまでは、よくある「努力と成長」の物語に見える。
だが、実際にはもう少し厄介な構造をしている。
自分は以前、店に勤めていた。
厨房の中で料理を作るだけの仕事である。
料理を作り、皿を出し、給料をもらう。
もちろん仕事ではあるが、そこに強い実感があったかといえば、正直なところ薄かった。
楽しいという感覚も、料理に対する情熱も、恥ずかしながらそこまであったとは言えない。
10年という時間は決して短くはない。
だが振り返ると、成長していたのかどうか、自分でもはっきりしない。
ゴーシュが一人で練習しても上達しなかったのと、どこか似ている。
独立してから、状況は一変した。
カウンター越しに料理を出す。
客と会話をする。
ここ数年はインバウンドで、外国人とやり取りすることも増えた。
同じ料理を作っているはずなのに、まるで別の仕事である。
いや、むしろ「仕事」という言葉が合わなくなってきた。
自分は料理人という職業をまとった人間の人生を歩いている、という感覚に近い。
一人でやっている以上、すべてが自己責任になる。
味も、空気も、会話も、店の時間そのものも。
だからこそ、以前の10年とは雲泥の差がある。
成長した、とは言い切れないが、少なくとも“何かが変わった”ことだけは確かである。
ゴーシュの変化も、同じ構造を持っている。
彼のもとには、夜ごとに奇妙な訪問者が現れる。
三毛猫、カッコウ、たぬき、野ねずみ。
彼らはゴーシュに無理難題を押し付ける。
乱暴にリズムを叩かせ、同じ音を繰り返させ、感情を込めさせる。
さらには、音で病気を治せとさえ言う。
これは指導ではない。
むしろ「関わり」である。
ゴーシュは彼らに振り回されながら、結果として音の意味を理解していく。
技術を教えられたのではなく、他者との関係の中で音楽を獲得していくのである。
ここで一つ、違和感がある。
ゴーシュは“職業演奏者”である。
楽団に所属し、指揮者に叱られ、演奏会で結果を出さなければならない。
つまり彼の音楽は、労働である。
だが、読み終えたときに残る印象は、それとは少し違う。
彼の音は、仕事のためだけに鳴っているようには思えない。
むしろ、誰かに届くことによって初めて成立するものとして響いている。
これは、自分の感覚とも重なる。
勤めていた頃、料理は明確に「仕事」だった。
だが今は、料理と生活の境界が曖昧になっている。
金銭のやり取りは確かにある。
だがそれ以上に、誰が食べているのか、どう感じているのかが、直接返ってくる。
厨房の奥では見えなかったものが、カウンター越しには見える。
そしてそれが、結果的に自分を変えていく。
ゴーシュは最後に、演奏会で見違えるような演奏をする。
ベートーヴェンの交響曲の中で、彼のセロはしっかりと響き、楽団の中に溶け込む。
指揮者も驚くほどの出来である。
だが、その変化は「努力の成果」というよりも、
夜ごとの奇妙な交流の積み重ねによって起きたものである。
そして、演奏が終わったあと、ゴーシュは気づく。
あの動物たちは、ただの訪問者ではなかったのだと。
音楽は、一人では完成しない。
料理も、おそらく同じである。
厨房の奥で完結していたものは、どこか閉じている。
誰かと向き合ったとき、はじめて形を持つ。
ゴーシュのセロの音と、カウンター越しの一皿。
それは思っている以上に、似た構造の上に成り立っているのかもしれない。

コメント