観終わって最初に思ったのは、「まあまあ面白かった」だった。退屈はしなかったし、アクションは派手だし、ヒュー・ジャックマンはかっこいい。でも何かが引っかかる。それが何かを考えていたら、「詰め込みすぎだ」という言葉がすぐに出てきた。
ヴァン・ヘルシング (2004) 主要製作クレジット
| 役職 | 担当者/情報 |
|---|---|
| 監督 | スティーヴン・ソマーズ |
| 脚本 | スティーヴン・ソマーズ |
| 製作 | スティーヴン・ソマーズ、ボブ・ダクセイ |
| 主要キャスト | ヒュー・ジャックマン(ヴァン・ヘルシング) |
| 音楽 | アラン・シルヴェストリ |
| 撮影 | アレン・ダヴィオー |
| 製作会社 | ユニバーサル・ピクチャーズ、ソマーズ・カンパニー |
| 配給 | ギャガ=ヒューマックス(日本) |
| 公開日 | 2004年5月7日(米国) |
| レーティング | PG-13 |
| 上映時間 | 133分 |
詳細なあらすじ
本セクションでは、映画のプロットを丹念に、シーンごとに分析する。単なる要約に留まらず、物語上の選択、キャラクターの動機、そして物語が展開する中での重要な転換点を、詳細なシノプシスを参照しながら解き明かす 。
プロローグ:モノクロームのゴシック悲劇
映画は、ユニバーサルのクラシック・モンスター映画への直接的なオマージュとして、白黒で撮影されたオープニングシークエンスから始まる。ここで中心的な対立構造が確立される。
ヴィクトール・フランケンシュタイン博士(サミュエル・ウェスト)が人造人間(シュラー・ヘンズリー)を創造するが、そのパトロンであったドラキュラ伯爵(リチャード・ロクスバーグ)に裏切られ殺害される 。この冒頭部分は、ドラキュラの動機が単なる吸血衝動ではなく、人造人間を利用した特定の目的、すなわち彼自身の子供たちを蘇らせることにあると明確に示している 。
狩人の召命:パリとバチカン
主人公ガブリエル・ヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)は、学者ではなく、バチカンの秘密組織に仕える記憶喪失の冷徹な戦士として登場する 。パリでのハイド氏との戦いは、彼の非情なまでの効率性、お尋ね者としての立場、そして組織から供給されるスチームパンク的なガジェットの存在を観客に印象付ける 。
出典:楽天ブログ
枢機卿からの指令によりトランシルヴァニアへ派遣された彼は、自身の過去を探す個人的な探求と、ドラキュラを抹殺するという使命を結びつけることになる 。
トランシルヴァニアでの遭遇:ヴァレリアス家の呪い
出典:シネマトゥデイ
ヴァン・ヘルシングはトランシルヴァニアに到着し、アナ・ヴァレリアス(ケイト・ベッキンセイル)と出会う。
彼女は、ドラキュラが滅ぼされるまで一族の誰も天国へ行けないという呪いを背負った貴族の末裔であった 。二人の間の当初の敵意は、ヴァン・ヘルシングがドラキュラの3人の花嫁の一人マリーシュカを村での壮絶な戦いの末に倒したことで、不本意ながらの同盟関係へと変化する。
このシークエンスは、アナが単なる助けを待つヒロインではなく、有能な戦士であることを確立している 。
陰謀の解明:フランケンシュタイン城の実験
出典:x.com
物語は、ドラキュラの真の計画が明らかになることで深みを増す。彼はフランケンシュタイン博士の人造人間を、死産した何千もの吸血鬼の子供たちに生命を与えるための生体伝導体として利用しようと企んでいた 。
このプロットは、クラシックなモンスターたちを新たな相互関連性のある神話の中に再配置する。アナの兄ヴェルカン(ウィル・ケンプ)がドラキュラに仕える狼男となる悲劇は、物語の賭金を個人的なものにし、ヒーローたちと彼らが戦わねばならないモンスターの一体とを直接結びつける 。
呪いの拡散:ブダペストの仮面舞踏会と狼男の咬み傷
物語中盤の転換点となるのがこのセクションである。人造人間を保護する最中、ヴァン・ヘルシングは狼男となったヴェルカンに咬まれ、人狼化の呪いに感染してしまう。これにより、彼の使命には文字通りのタイムリミットが設定される 。
その後、アナが捕らえられ、壮麗な仮面舞踏会のシークエンスが展開される。ここでドラキュラはアナを誘惑しようと試み、ヴァレリアス家の血筋に対する彼自身の歪んだ愛情を露わにする 。混乱に満ちた救出劇と、その後の人造人間のドラキュラ軍による捕獲は、対立を最終段階へとエスカレートさせる。
クライマックス、ドラキュラ城にて:怪物 対 怪物
出典:Youtube
最終幕は、相互に連鎖する出来事の連続である。カールがドラキュラ城への隠された地図を発見し、3人は城塞に潜入する。ここで作戦が立てられる。ドラキュラを殺せるのは狼男だけであるため、ヴァン・ヘルシングは狼男に変身して伯爵を殺し、呪いが完全になる前にアナとカールによって治療されなければならない 。
クライマックスの戦いの最中、ドラキュラはヴァン・ヘルシングの過去を知っていることを明かし、彼を「ガブリエル」「神の左手」と呼び、数世紀前に自分を殺害した張本人であると告げる 。ヴァン・ヘルシングは狼男の姿で過去を振り切り、ドラキュラを殺害する。
しかし、この勝利には悲劇的な皮肉が伴う。悪を打ち破るための力(狼男の呪い)そのものが、ヒーローたちにとっても脅威となるのである。野獣と化した英雄(狼男ヴァン・ヘルシング)は、彼を救おうとする人物(アナ)が治療薬を投与した直後、意図せずして彼女を殺害してしまう 。
勝利は悲劇と分かちがたく結びついている。ヴァン・ヘルシングは世界を救うが、愛する女性をその手で殺めてしまう。アナは一族の宿願を果たすが、その成就を見届けることはない。この意図的な選択は、クライマックスを単なる善対悪の戦いから昇華させ、典型的な大作映画の期待を裏切る、よりゴシックでほろ苦い感性を内包している。
2.7. エピローグ:魂の昇天
映画は静かなエピローグで幕を閉じる。悲しみに暮れるヴァン・ヘルシングとカールがアナの遺体を火葬していると、彼はアナの魂が先祖たちと共に雲の上から微笑みかけ、天国へと昇っていくのを目撃する 。彼女の犠牲は呪いを解いたのだ。
使命は果たされたが、心は傷つき、過去は依然として謎のまま、ヴァン・ヘルシングはカールと共に夕日の中へと去っていく。この結末はアナの物語に終止符を打つ一方で、ヴァン・ヘルシングの物語を大きく開かれたままにしており、実現しなかった続編への明確な布石となっている 。
ドラキュラと狼男とフランケンシュタインが全員出てくる映画
狼男
出典:Reddit
この映画に登場するモンスターを数えると、まずドラキュラ(と3人の花嫁)、狼男、フランケンシュタインの怪物、さらにプロローグにはハイド氏まで出てくる。全員集合だ。
製作者の意図はわかる。ユニバーサルが長年育ててきたクラシック・モンスターたちを、一本の映画でまとめて見せてしまおうということだ。豪華だし、サービス精神は伝わる。実際、画面に次々と有名なモンスターが現れるたびに、「おっ」という気分にはなる。
フランケンシュタインの怪物
出典:シネマトゥデイ
ただ、それぞれが薄い。ドラキュラは確かに中心的な悪役として機能しているが、花嫁3人はほぼ装飾だし、フランケンシュタインの怪物はもっと見たいのに中盤以降は脇に追いやられる。狼男になった兄ヴェルカンの悲劇は、もう少し時間をかけて描けばずっと重くなったはずで、それを感じるだけに惜しい。
詰め込みすぎというのは、量の問題というより、どれ一つとして「ここまで来た」という感覚にならないことの問題だ。アクションが終わると次のアクションが始まる。謎が提示されると次の謎が始まる。観ているこちらが追いつく間もなく、映画が先へ行ってしまう。
それがこの映画の欠点であることは間違いない。でも同時に、2004年という時代のブロックバスターが持っていたサービス精神の産物でもある、と今は思う。「これでもか」と詰め込むことで、お客が損した気分にならないようにする。その過剰さが、当時の娯楽映画の文法だった。
「ガブリエル」という謎が、永遠に謎のままになった
物語の後半、ドラキュラがヴァン・ヘルシングに向かって言う。「お前の名前はガブリエルだ。お前は神の左手だ。そして何世紀も前、お前が俺を殺した」。
これは面白い。記憶を失った主人公が、実は大天使ガブリエルだったかもしれないという示唆は、この映画が単なるモンスター・アクションではなく、もっと神話的な何かを目指していたことを教えてくれる。そこには確かに惹かれるものがあった。
だが映画は答えを出さない。ドラキュラは死に、謎は謎のまま幕が下りる。
最初に観たとき、私はその宙づり感に少しだけ苛立った。でも今思えば、その苛立ちは正しかったと思う。この謎は、続編があることを前提に設計されていたのだ。「次を観に来れば教えてやる」という構造。映画単体としての完結より、フランチャイズの維持を優先した作り方。
「続編ありき」という方式への違和感
もともと私は、この種の作り方があまり好きではない。アメリカのドラマでよくある、視聴率が上がればいつまでも続く方式。核心の答えを引き延ばしながら、シーズンを重ねていくやり方。あれと同じ感覚を、この映画にも感じた。
物語の中心にある問いを、作り手が最初から答える気のない餌として使っている。「ガブリエルとは何者か」は、観客を次の映画に引っ張るフックであって、この映画が真剣に向き合おうとしている問いではない。
そう気づくと、少し冷める。
続編が来なかった映画に残るもの
出典:TMDB
結局、続編は作られなかった。興行収入は利益こそ出したが、スタジオが期待したほどの数字ではなく、フランチャイズ化の計画は静かに消えた。
その結果、「ガブリエル」の謎は永遠に謎のままになった。答えは誰も知らない。ヴァン・ヘルシングは何者だったのか。彼がかつてドラキュラを殺した理由は何か。呪いはいつか解けるのか。——全部、空白のままだ。
これは、フランチャイズ構築という産業的な野心が、単独映画としての完成度を削いだ典型的な失敗例だと思う。後にユニバーサルが「ダーク・ユニバース」と銘打って同じことを試みて、やはり最初の一本で頓挫したのも、根本的な発想が同じだったからではないか。ユニバースを先に宣言して、物語を後から埋めようとする。観客はそこに乗れない。
それでも、まあまあ面白かった
出典:Youtube
ただ、言っておきたいのは、そういう構造的な問題があっても、この映画は観ていてそれなりに楽しかった、ということだ。
ヒュー・ジャックマンはこういう役がよく似合うし、ケイト・ベッキンセイルは動くたびに画面が締まる。フランケンシュタインの怪物が、誰よりも人間らしい感情を持って動いている場面には、素直に胸を突かれた。アクションの詰め込み方も、過剰すぎて笑えてくるくらいには楽しい。
詰め込みすぎで散漫で、肝心の謎は答えが出ないまま終わる。フランチャイズになるはずが一本で終わった。そういう映画だとわかった上で観ると、逆にこの映画が持っている種類の過剰さ、2000年代のブロックバスターが持っていた「全部乗せ」の熱量が、少し愛おしくも見えてくる。
完成されていないから、どこかに余白がある。その余白に、観た人がそれぞれ何かを補って楽しむ映画なのかもしれない。









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