絞首台の「不在」と、日活の「過剰」——『絞首台の下』を観て思ったこと

『絞首台の下』という題名を見た瞬間、私はまず“ちょっと怖いミステリー”を想像した。

絞首台、首吊り、刑場。そういう直接的な死の気配が、画面のどこかに具体物として置かれている映画だと思った。けれど実際に観ると、絞首刑は出てこない。ここでまず肩透かしを食う。

だが、観終わってから振り返ると、むしろその“出てこなさ”が、この映画の居心地の悪さと、妙な魅力の両方につながっていた気がする。

出典:日本映画1920-1960年代の備忘録 – はてなブログ
目次

あらすじ(ラストまで/ネタバレあり)

北海道・十勝の開墾地で兄と暮らす佐伯千早のもとに、10年間音信不通だった許婚・柳本憲から葉書が届く。発信地は千葉。千早は兄の友人で新聞記者の乾保日出を頼り、本州へ向かう。道中、連絡船で知人の島本三郎と再会し、憲探しに協力してもらうが、葉書の住所を訪ねるとそこは刑務所だった。憲は殺人罪で服役中であり、弁護士の控訴の勧めも拒み続けている。

千早は東京で乾と合流し、乾の恋人で法医学者の小山久美子、警視庁の田名網警部らも絡む中、事態は急転する。憲が脱獄し、ほどなくして島本が横浜で殺害される。乾の事務所には、多田という老人が「事件の鍵になる情報」を売り込みに来るが、乾不在のため去り、その後多田も殺される。さらに岩淵弁護士経由で、憲名義の「この事件から手を引け」という脅迫が乾に届き、乾は背後に組織的な犯罪の匂いを嗅ぎ取る。

乾は千早を守ろうとするが、千早は「憲の使い」を名乗る謎の女に誘導され、温泉旅館に足止めされるなど、事件は攪乱されていく。やがて乾のもとに「葉山の別荘へ来い」といった誘いが届き、乾と久美子は罠と知りつつ現地へ向かう。別荘はもぬけの殻で、引き返す瞬間、猛スピードの車から男が転げ落ち、銃声が響く。倒れていたのは憲だった。憲は最期に「だまされた、船が……、ちはや」と言い残して息絶える。

乾と久美子は、この断片的な言葉を手がかりに、事件の背景が沈没した“船”と密輸(あるいは国際的な闇取引)に結びついていることを掴む。捜査線は基地や外国勢力の影を匂わせる方向へ拡大し、クライマックスでは追跡と銃撃戦が続くアクション色の濃い展開へ雪崩れ込む。最終的に実行犯側は追い詰められ、事件は「解決」には至るものの、観客の期待する意味での“きれいな真相開示”や明快な黒幕指名は曖昧なまま終わる。ミステリーとして始まった物語は、巨大な陰謀の輪郭だけを残し、逃走とアクションの熱量で幕を引く。

「絞首台」は画面にない。けれど、ずっと頭上にある

絞首台がないのに『絞首台の下』。このズレは、観客の期待を裏切るというより、死が「装置」ではなく「圧力」として存在することを示しているのかもしれない。誰かが絞首刑に処される場面はないのに、登場人物たちには終始「いつ終わってもおかしくない」感じがつきまとう。

刑務所、脱獄、口封じ、連続する死。そうしたものが、具体的な絞首台の代わりに、じわじわと“処刑の気配”を立ち上げる。

つまり、この映画の絞首台は舞台装置ではなく、観客の想像力の中に置かれる。タイトルが怖いのは、映像に出てくるからではなく、映像に出ないまま、ずっと上からぶら下がっているからだ。そんなふうに解釈すると、このタイトルは少しだけ腑に落ちる。

前半ミステリーの「良さ」——葉書から始まる、きれいな謎

出典:日本映画1920-1960年代の備忘録 – はてなブログ

正直、前半はかなり良かった。葉書一枚から始まる導入、刑務所という意外な地点、そこから脱獄と殺人が絡み合っていく運び。ミステリーとしての「入口」がきれいで、私はそこで期待を固めた。

ここで観客が求めるのは、謎がほどけていく快感だ。誰が何のために動き、何が隠されていて、何が明かされるのか。そのゲームの盤面を、映画が整えてくれる時間帯が前半には確かにある。

だからこそ、その後に来る“段差”が目立つ。

後半アクションへの段差——失敗なのか、日活の欲張りなのか

中盤以降、映画はだんだんミステリーの歩幅ではなく、アクションの歩幅で走り始める。謎解きで前に進むのではなく、追う/逃げる、撃つ/撃たれる、移動する、という運動で前へ進む。その切り替えが、観客の脳内のモード変更を要求してくる。

私はここで「結局アクションになるのか」と思った。しかも終盤は、とにかく追いかけっこが長い。特に、主人公が“水着の女”と逃げる場面がやたら長い。長いだけではなく、ここで映画が目指している興奮の質が、前半の知的なスリルから、別種の“見せ場”に移ってしまう。

だから観ながら、こう思ってしまった。

ミステリーとアクションと、ちょっとセクシーなところを詰め込みすぎでは?

欲張りすぎて、焦点が散る。これが、作品としての弱点に見えるのは確かだ。

ただ一方で、ここを単純に「失敗」とだけ言い切っていいのか、とも思う。というのも、この“詰め込み”は、個性でもあるからだ。いまの映画なら要素を絞って一本の線にまとめるところを、この時代の娯楽映画は、平気で盛る。盛って、畳みかけて、観客に「損はさせない」と言わんばかりに見せ場を置いていく。

私はそこで、「ああ、こういうのが日活映画なんだな」と感じた。整理整頓された完成度というより、過剰さ自体が商品になっている。

久美子という「理性」が、最後に「身体」へ着地する違和感

この欲張りさを象徴しているのが、久美子(法医学者)の扱いだと思う。法医学者というのは、本来ミステリーの側の人物だ。証拠、推理、科学。理性。

ところが終盤、久美子は“理性”の役割を超えて、映画の運動に巻き込まれていく。水着のシーンも含めて、彼女は次第に「情報」よりも「身体」の存在として画面に現れる時間が増える。

もちろん、それを当時の娯楽として楽しむ見方もある。けれど、前半のミステリー感に乗っていた私にとっては、ここが一番ひっかかる部分だった。

理性のキャラクターが、セクシーとアクションの歯車に組み込まれていく。その変化が、作品の段差をいっそう大きくしてしまう。

ただ、この違和感が残ること自体が、逆に映画の“時代の匂い”でもある。映画が女性をどう見せ、何をサービスとして差し出すか。そこに1950年代末の娯楽映画の感覚がそのまま刻印されていて、いま観ると、気持ちよさと居心地の悪さが同時に来る。

それでも「新鮮だった」——長門裕之と赤木圭一郎を観る喜び

長門裕之(右)
出典:Wix.com

それでも私は、この映画を観てよかったと思っている。

理由は単純で、長門裕之と赤木圭一郎ががっつり活躍する映画を、私はほとんど観たことがなかったからだ。いまの目で見ると、彼らの佇まい、顔、声、画面の持ち方が新鮮で、なるほど“スター”というのはこういうものか、と勉強になる。

赤木圭一郎
出典:ameblo.jp

たとえ作品が過剰で、要素が散っていて、終盤の追いかけっこが長すぎると感じても、そこに「時代の娯楽映画のやり方」があり、スターの輝きがある。整った傑作ではないかもしれない。だが、日活の過剰さをそのまま浴びる経験としては、十分に面白かった。

結び:絞首台は出ない。でも、過剰さの下で映画は生きている

『絞首台の下』は、題名が期待させる“怖いミステリー”から始まり、途中でアクションへ転び、さらにセクシーさまで抱え込む。私はその欲張りさにツッコミを入れたくなったし、終盤の長い逃走には正直うんざりもした。

けれど観終わると、妙に納得している自分もいる。絞首台が画面に出ないのに、死と圧力はずっとある。ミステリーがアクションへ転ぶのに、スター映画としての熱は失われない。理性の人物が身体へ引きずられても、それが当時の娯楽の現実として残っている。

この映画の面白さは、整った完成度ではなく、過剰さそのものが生む手触りなのだと思う。

絞首台は出ない。でも、過剰の下で、映画は確かに息をしていた。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次