GWに帰省していた姉が「面白い」と言うので、見始めたのが『屍鬼』(2010年)だった。
朝ごはんを食べながら、一話ずつ。気軽な気持ちで。山に囲まれた古びた農村に吸血鬼が来る話、くらいの認識で画面をつけていた。前半はそれでも成立していた。怖いことは怖いが、ホラーとして真っ当な作りで、飯を食いながら見られないことはなかった。
出典:FOD – フジテレビ
問題は、話が進んでからだ。
いつの間にか「朝に見る作品ではなかった」と気づく。後悔はしていないが、後味の悪さという点では、かなりのものだった・・・
怪物が映る瞬間
視点の反転は突然ではなく、じわじわと起きる。
アニメ『屍鬼』の前半は、非常に真っ当なホラーとして機能している。山に囲まれた閉鎖的な農村・外場村に、謎めいた一家が引っ越してくる。その直後から村人が次々と死んでいく。夜に動く死者の影。吸血鬼の存在を示唆する痕跡。正体不明の恐怖に対して、人間側がじりじりと追い詰められていく過程だ。
見ている側はここで無意識に「立場」を選ぶ。村の医者・尾崎敏夫に共感し、寺の若住職・室井静信に感情移入し、屍鬼(しき)たちを「倒すべき敵」として認識するよう、物語の構造が誘導するからだ。
だが中盤以降、この作品はその「立場」ごと揺さぶりにかかる。
屍鬼の存在が村人に公になり、「屍鬼狩り(しきがり)」が始まったとき、画面はそれまでとは違う光景を映し始める。昼間に棺を暴き、逃げようとする屍鬼を地面に押さえつけ、杭を胸に打ち込んでいく村人たちの姿だ。
屍鬼は命乞いをする。叫ぶ。涙を流す。しかし村人の手は止まらない。
これを見て「やった、敵を倒した」とだけ感じることは難しい。何かが、反転している。
なぜこれほど不快なのかというと、屍鬼たちが「人間だったときの感情」を持ったまま殺されているからだ。起き上がった後も彼らは記憶を持ち、恐怖を感じ、死を恐れる。それは生物として当然の反応であり、人間が殺されるときと何ひとつ変わらない。
さらに残酷なのは、屍鬼の中には「他者を傷つけることを拒否した者」もいたという事実だ。看護師の山村律は、起き上がった後も人の血を吸うことを拒み続けた。飢えに苦しみながら、それでも吸わなかった。その彼女もまた、暴徒化した村人に杭を打たれて死ぬ。
律は何も悪いことをしていない。それでも殺される。なぜなら「屍鬼だから」という理由だけで。
この構造は、歴史的な迫害のパターンと重なる。「あの集団に属しているから」という理由だけで、個の行動や意志とは無関係に排除される論理。外場村の屍鬼狩りは、村社会の「秩序の論理」が暴走した先にある集団的暴力の写し絵として機能している。
怪物とは何か。この問いに対して本作は明確な答えを出さない。ただ「どちらも怪物になりうる」という事実を、静かに、しかし執拗に提示し続ける。
室井静信という人間について
静信は一見、この物語で最も「まとも」な人物に見える。
彼は暴力を嫌い、命を軽んじることを拒む。敏夫が妻を実験台にし、村人を煽り、屍鬼狩りの先頭に立っていく中で、静信はその方法に反対し続ける。「たとえ屍鬼であっても、殺すことを簡単に選ぶべきではない」という立場を、彼は最後まで放棄しようとしない。
これだけ見れば、静信は理想主義者として一貫しているように見える。
だが問題は、その理想主義が最終的に何を守ったのか、という点にある。
静信は屍鬼の首謀者・桐敷沙子と対話を重ね、彼女への共鳴を深めていく。沙子は何百年もの孤独の末に「屍鬼だけが生きられる場所」を求めて外場村に来た存在だ。征服者ではなく、居場所を求めた者として描かれる。静信の書いた小説——神に見捨てられた者の苦しみを描いたもの——に、沙子は自分自身を見出した。
静信が沙子に引き寄せられたのは、彼女の孤独が「理解できるもの」だったからだ。小説家としての想像力が、屍鬼という存在の内側に入り込む回路を作ってしまった。
そして彼は、村人・大川富雄を殺す。沙子を守るために。
「いかなる暴力も正当化できない」と繰り返してきた人間が、人を殺す。これは矛盾か。
矛盾ではある。だが単純な偽善でもない、と私は思う。
静信がしたことは「守るべき対象の発見」だ。理念として「命を大切にしろ」と言い続けてきた人間が、初めて守りたいと感じた具体的な存在のために、その理念を自ら破る。理想主義者が理想を捨てる瞬間ではなく、理想主義者がはじめて「現実」に接触した瞬間として読むこともできる。
ただそれが「正しかった」かどうかは別問題だ。
静信が沙子の側に立つことで救われた命は、ほぼない。外場村は結局燃え、大多数の屍鬼は殺される。静信が守ろうとした「屍鬼の居場所」は実現しなかった。道義的に見ても結果的に見ても、正当化できる根拠が非常に薄い。
それでも静信は沙子と共に村を脱出し、どこかへ消える。
私には「敗北した理想主義者が、せめて自分の信じた相手と共に消えた」という像として見える。英雄的でもなく、悲劇的とも言い切れない。ただ静かに、一種の終息として。
尾崎敏夫の「正しさ」という問題
では、敏夫は正しかったのか。
敏夫は死んだ妻・恭子を実験台にする。蘇った彼女に何度も死と復活を繰り返させ、屍鬼を殺す方法を解明する。この行為は医師倫理としては明確な逸脱だ。しかし敏夫はそれを知った上で選ぶ。「感情より先に答えを出さなければ、村人がもっと死ぬ」という論理のもとで。
敏夫がこの行為に何の躊躇もなかったわけではない。ただ彼は躊躇に長い時間をかけない。目的と手段を一瞬で整理し、実行する。感情の処理を後回しにする能力が、敏夫という人間の本質だ。
最終的に敏夫は生き残る。静信も夏野も死に、または消え、外場村そのものが灰になる中で、敏夫だけが残る。
これを「勝者」と呼べるかどうか。守ろうとした村は存在しない。仲間も大半が死んだ。妻は失った。生き残ったのは、廃墟の前に立つ一人の男だけだ。
だが敏夫の立場から見れば、彼は「選択した」のだという事実が残る。感情に流されず、理想に耽溺せず、目の前の問題に対して自分の判断で動き続けた。それが正しかったかどうかの答えは、物語の中に用意されていない。ただ「そうした人間が生き残った」という事実だけがある。
ここで静信との対比が際立つ。静信は感情と観念の人間だ。共感し、苦悩し、自分の信念が崩れる過程を丁寧に生きる。対して敏夫は選択と実行の人間だ。信念を持つというより、都度判断して動く。
どちらが「正しい」かではなく、この二つの人間類型が同じ事態に対して全く異なる行動をとり、全く異なる終わりを迎えるという対比そのものが、本作の設計意図だったのではないかと思う。
問いとしての結末
外場村は燃える。屍鬼も人間も大半が死に、あるいは消える。
桐敷沙子はただ「居場所」が欲しかった。それだけのために何百人もの命が失われた。尾崎敏夫はその喪失の中にひとり立っている。室井静信は沙子と共に消えた。
本作が最後に残すのは「答え」ではなく、「問いを抱えたまま生きていく感覚」だ。正義がどこにあったかを後から整理しようとしても、うまくいかない。村が燃えた事実だけが残り、その炎の中に全ての判断が溶けて消える。
答えを出してしまえば、この物語は説話になる。誰かが正しく、誰かが間違っていたという物語に。
燃やすことで、誰も正しくなく、誰も間違っていなかった。あの村で起きたことは、ただ起きた。そしてそこに生きていた全員が、それぞれの論理で動いた結果として、全部が終わった。
朝ごはんの合間に見始めたのが間違いだったかどうかは、今でも少し迷っている。後悔はない。ただ、そういう時間帯にはしない方がよかったというだけで。見てよかったかという問いには、「そう思う」と答えるしかない作品だ。しんどかったけれども。


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