ブームの臨界点で生まれたメタフィクション――『金田一耕助の冒険』再考

目次

はじめに――これは「金田一映画」ではない

1979年7月14日公開の映画『金田一耕助の冒険』は、横溝正史ブームの絶頂期にあえてブームそのものを笑い飛ばしにかかった、日本映画史上初のパロディ映画である。

監督は大林宣彦、主演は古谷一行。角川映画が手がけた金田一シリーズ第3弾として制作されたが、従来の陰惨でおどろおどろしいミステリーとは一線を画し、全編をギャグとパロディで埋め尽くした怪作に仕上がった。

出典:TOKYO MX

「これでも映画か!」という宣伝コピーが示すとおり、本作は最初から正統派のミステリーを目指していない。むしろ金田一ブームという一大文化現象そのものを俎上に載せ、自虐と愛情と笑いで解体してみせた作品なのである。


基本情報

項目内容
公開日1979年7月14日
上映時間113分
監督大林宣彦
脚本斎藤耕一、中野顕彰
台詞(ダイアローグ・ライター)つかこうへい
原作横溝正史「瞳の中の女」
製作角川春樹
撮影木村大作
配給東映洋画
製作費8000万円(宣伝費1億円)

主演の古谷一行は当初予定されていなかった。本来は東映版『悪魔が来りて笛を吹く』に主演した西田敏行がキャスティングされていたが、スケジュールの都合で降板。テレビの金田一として国民的な知名度を持つ古谷が起用された。

この「テレビの金田一が映画に逆輸入される」という偶発的な事態は、本作のメタフィクション的な構造をさらに強固にする結果となった。


あらすじ(ネタバレあり)

映画・テレビ・文庫本でブームの頂点を迎えた金田一耕助(古谷一行)は、盟友・等々力警部(田中邦衛)とともにコマーシャル撮影に励む日々を送っていた。しかし内心では満たされない。現代日本には、彼が渇望する「おどろおどろしくも美しい殺人事件」が起こる余地がないからだ。

出典:ameblo.jp

ある日、金田一はローラースケートの窃盗団「ポパイ」に拉致される。首謀者のマリア(熊谷美由紀=現・松田美由紀)は金田一の大ファンで、かつて未解決に終わった「瞳の中の女」事件の真相解明を要求する。マリアは事件の鍵となる石膏像「不二子像」の首部分を所持しており、これを手がかりに調査を依頼するのだった。

出典:映画.com

不二子像は彫刻家・灰田勝彦が制作したもので、美術評論家の古垣和哉(仲谷昇)が本体を保管していた。しかし首部分は何者かに盗まれ、骨董屋の明智小十郎(東千代之介)の手へと渡る。金田一が調査を開始すると、行く先々で死体が転がり出す。首が人手に渡るたびに殺人が繰り返されるのは、ダシール・ハメット『マルタの鷹』を想起させる、秘密の品が死を呼ぶサスペンスの定型パターンのパロディでもある。

捜査の末、金田一は山の老人ホームに文江(吉田日出子)が頻繁に見舞う老人・森友吉(山本麟一)の存在を突き止める。森は不二子像の首の複製を強迫的に作り続けていた。真相はこうだ。文江はかつて師匠・灰田の妻だったが、弟子の森と駆け落ちした。しかし才能の限界を感じた森はやがて文江を捨て逃亡。数十年後、老いた森を老人ホームで発見した文江は、捨てられた復讐として「芸術的な拷問」を課した。師匠の傑作を永遠に越えられない男に、その複製を作り続けさせたのである。秘密の露見を恐れた森が首を盗み、連続殺人を犯していた。

事件は解決される。しかしラストシーンで金田一が長々と語る「探偵論」こそが、本作の真のクライマックスである。


豪華すぎるカメオ出演陣

本作最大の特徴のひとつが、信じがたいほどのゲスト出演陣だ。三船敏郎が「第11代目金田一耕助」として劇中劇に登場し、岡田茉莉子が『人間の証明』のパロディとしてカレーを食べ、横溝正史本人が自らの名で出演する。

そして制作者の角川春樹まで役者として画面に現れ、「私は、こんな映画にだけは出たくなかった」という横溝の台詞で角川映画の誇大宣伝を自虐する。

これらのほとんどが無報酬か無報酬に近い出演だったという。角川映画の求心力と、大林宣彦の人望なくしては実現しえなかった布陣である。さらに樹木希林、志穂美悦子、檀ふみ、岸田森、斉藤とも子、そして推理作家の高木彬光・笹沢左保まで加わり、映画全体が時代の祝祭空間と化している。

映画「金田一耕助の冒険」で熊谷美由紀(松田美由紀)が女優デビュー 
左から江木俊夫、古谷一行、熊谷、田中邦衛
出典:Infoseek 楽天

とりわけ歴史的な意味を持つのが、マリア役の熊谷美由紀(現・松田美由紀)の映画デビューである。

つかこうへいの推薦によるキャスティングで、地方では『蘇える金狼』との2本立て公開のキャンペーン中に松田優作と出会い、後に結婚する。この映画の周辺で、昭和映画史の運命的な邂逅が静かに起きていた。


考察――ブームの臨界点で仕掛けられたメタフィクション

「自己言及」という最大のパロディ

本作が単なる悪ノリで終わらない理由は、そのパロディが自己言及的な批評として機能しているからだ。角川映画は横溝ミステリを書籍・映画・テレビで飽和するほど量産し、一大ブームを作り上げた。本作はその文化現象の「作り手側」が、自らの過剰さを笑いの対象として差し出すことで成立している。

横溝本人が「ワシはこの映画にだけは出たくなかった」と言い、角川春樹が自らの「札束」の中身は白紙だと暴露する。この自虐の快楽こそ、本作の核心である。

金田一の「探偵論」が突きつけるもの

ラストシーンで金田一が語る独白は、横溝正史作品への長年の批判に正面から向き合う。「なぜ金田一は全員が殺されてから推理を始めるのか」という問いに対し、金田一自身はこう語る。「日本の犯罪ってのは、どうしたって家族制度や血の問題がからんできちまう。それは日本の貧しさなんですよね」。

ここで映画は突如として社会批評の顔を見せる。横溝ミステリの連続殺人は、論理パズルではなく、因習と貧困と血の呪縛の産物である。それは探偵の「ワンパターン」ではなく、日本社会の病理の反復なのだと金田一は言う。この台詞の瞬間、本作は笑いを装ったまま、日本の戦後社会に対する鋭い眼差しを向けているのだ。

さらに金田一はこう続ける。「探偵ってのは、事件に対して怒りや憎しみを持っちゃいけない。ただ、その事件を媒介として、人間の真実を追いかけていくものなんです」。これは名探偵の職業倫理を超え、物語を語る者の倫理——つまり作家論、あるいは映画監督論として読むこともできる。大林宣彦が金田一に語らせたこの台詞は、パロディの洪水の最後に突如現れる真剣な宣言だ。

記号の終わりと変容の始まり

批評家票ゼロ、読者投票25位。本作の当時の評価は低かった。しかし大槻ケンヂが後年指摘したように、パロディの賞味期限が切れた現在、本作は「観るなぞなぞ」のようなシュールな輝きを帯び始めている。何を笑わせようとしているのかが分からないまま見ると、かえって不思議な前衛映画として映る。それはまさに時代の「真空パック」であり、1979年という昭和の空気をそのまま閉じ込めた記録フィルムでもある。

そして本作の最大の遺産は、映画の内容よりも「その後」にある。大林宣彦と角川春樹はここで信頼関係を築き、以後1992年まで6本の角川映画を共同制作する。その中には『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』という尾道三部作が含まれる。松田美由紀のデビューと松田優作との出会いもこの映画の周辺で起きた。怪作『金田一耕助の冒険』は、日本映画の1980年代を切り拓く、静かな出発点でもあったのである。


おわりに

「これでも映画か!」というコピーは単なる自虐ではない。それは、映画とは何か、探偵小説とは何か、消費社会における物語の役割とは何かを問い直す、挑発的な問いかけだったのではないか。

金田一耕助の冒険は終わった。しかしその「冒険」が残した問いは、半世紀近くを経た今もなお、静かに観客に向けて差し出されている。

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