距離が育てた愛、霧が隠していた地獄——映画『深い谷の間に』ネタバレレビュー

ロマンス、SFホラー、アクション、政治スリラー——これだけのジャンルを一本に押し込んだら、たいていは収拾のつかない散漫な作品になる。ところが『深い谷の間に』は、そのすべてが「谷」という一点に収束していく構造になっており、観客は気づけばジャンルの境目を意識することなく2時間7分を駆け抜けてしまう。

深い霧に閉ざされた渓谷の底に何が眠っているのか。双眼鏡越しに恋が芽生えた2人のスナイパーが直面する戦慄の真実を、全編ネタバレで解説していく。

目次

作品基本情報

原題は『The Gorge』。スコット・デリクソン監督、ザック・ディーン脚本による2025年のアメリカ映画であり、マイルズ・テラー、アニャ・テイラー=ジョイ、シガニー・ウィーバーが出演し、2025年2月14日にApple TV+で公開された。

本作はApple TV+史上最大の映画公開となり、ジョージ・クルーニーとブラッド・ピット主演の『ウルフズ』を上回った。 バレンタインデーという公開日の選択は、本作が単なるSFアクションにとどまらない、ラブストーリーとしての側面を意識してのことだろう。

監督は「ドクター・ストレンジ」「ブラック・フォン」のスコット・デリクソン。脚本は「トゥモロー・ウォー」のザック・ディーンによるもので、2020年に、映像化されていない優れた脚本をリストアップするハリウッド業界の「ブラックリスト」にも選ばれている。

ジャンルを一言で言い表すのが難しい映画である。デリクソン監督は本作を「アクション、ホラー、政治スリラーが混じったロマンティックなSF」と表現している。 この乱暴なほど贅沢なジャンル混合こそが、本作の最大の個性であり、賛否が分かれる原因でもある。


ストーリーの導入——2つの監視塔と孤独な番人たち

元米海兵隊の孤独な男性スナイパー、リーヴァイ(マイルズ・テラー)は軍の高官らしき人物バーソロミュー(シガニー・ウィーバー)からある任務を頼まれる。それは1年間、どこの国かも分からない地域に駐留し、そこにある渓谷を”警備”することだった。谷は深い霧が立ち込めていて底が見えないが、その奥からは時折、甲高い金切り声が聞こえてくる。

リーヴァイは西側の監視塔にたった一人で配備されるが、谷の向かいにある東側の監視塔にはリトアニア人の女性スナイパー、ドラサ(アニャ・テイラー=ジョイ)が同じタイミングで配備された。この谷は先の大戦の頃から東側と西側の両陣営によって”警備”されていた秘密地域なのだ。

外部との連絡手段は断たれ、監視塔同士の通信も禁止されている。2人はそれぞれ別の雇い主に雇われており、互いの存在を認識しながらも、しばらくは規則を守って沈黙を保ち続ける。

この導入部は、冷戦構造をそのままミニチュア化したような寓話的設定になっている。東と西、禁じられた接触、霧の向こうに隠された秘密——これだけで既に物語は十分な深みを持っている。


前半——距離が育てる恋

リーヴァイとドラサは互いに交信することを禁じられていたが、他にすることもあまりないので双眼鏡とホワイトボードを使って交流が始まる。

出典:ameblo.jp

「セッション」でドラムを叩いていたマイルズ・テラーが元米海兵隊の男に、「クイーンズ・ギャンビット」で天才チェスプレイヤーを演じたアニャ・テイラー=ジョイがリトアニア出身で東側の仕事を請け負う女にそれぞれ扮し、谷をはさんで双眼鏡越しに親交を深めるシーンではチェスの対局やドラムセッションに興じてファンを楽しませる。

この前半部分は、スパイ映画の文法を借りながら、実質的にはコメディタッチのロマンスとして機能している。2人がいる場所はあからさまに怪しい謎だらけの峡谷で、異様なほどに物騒な代物に囲まれ、早々にこの谷底から這い上がってくる恐ろしい存在を目にすることになるのだが、それも後回し。「あれ?」という違和感を無視するように瞬く間に仲良くなっていく過程をテンポ良く、アホっぽく描いてくれる。

そしてついに、リーヴァイは花束を持ってロケット砲でケーブルを張り、ドラサの塔へと渡ることに成功する。2人は初めて同じ空間で夜を過ごした。しかし翌朝、リーヴァイが自分の塔へ戻ろうとした帰り道、ワイヤーは何者かによって途中で切断され、リーヴァイは霧深い谷底へと落下してしまう。

それを目撃したドラサは迷いなく谷へと飛び込む。個人的にこのシーンが本作のロマンスの頂点である。計算も理性も吹き飛ばして、躊躇なく跳ぶ——その瞬間に愛の重さが凝縮されている。


後半【核心ネタバレ】——谷底の闇が明かす戦慄の真実

出典:シネマトゥデイ

谷底に降り立った2人を待ち受けていたのは、映画の様相を一変させる光景だった。

霧の底に広がっていたのは、かつてここで行われた生化学兵器開発実験の残骸である。大戦の時代、東西両陣営がこの谷で極秘裏に進めていた人体感染実験は失敗に終わり、変異した人間たちがそのまま谷底に封じ込められた。リーヴァイとドラサが任されていた「警備」の正体とは、その封印を守ることだったのだ。2人は今まさに、自分たちが蓋をしていた地獄の内側に立っている。

恋が芽生えた場所の真下に、これほどの闇が眠っていた——その事実が、2人の足元を静かに揺さぶる。

変異した人間(人間・動物・植物のDNAが混合した異形の存在)たちが、霧の中から馬に乗って突進してくる。この映像的インパクトは相当なもので、視聴者の予想を完全に裏切る。

出典:ameblo.jp

谷底の霧は単なる演出ではなく、視覚的な変化でも物語を語っている。クリーチャーが潜む谷底は霧がかかっており、リーヴァイとドラサが移動するにつれて、霧の色が黄色、紫色、赤色と変化するのも印象的だ。「大胆で躍動感のある色にしたかった」とデリクソン監督。参考になったのは、イタリアン・ホラーの巨匠であるマリオ・バーヴァやダリオ・アルジェントの作品だったという。

「彼らは芸術的なホラーの中で、あえて色彩を極端に用いることに挑戦していました」

マリオ・バーヴァ、ダリオ・アルジェント。この2名の名が出た時点で、イタリアン・ホラーへの造詣がある映画ファンはニヤリとするはずだ。谷底の赤く染まる霧は、アルジェントの『サスペリア』的な、非現実的な美しさと恐怖が同居する色彩空間の直系にある。


真相——民間防衛企業と「野良犬」計画

谷を爆撃し破壊し尽くしクリーチャーと実験の失敗を隠蔽すると思われたが、施設はその後、超人兵士を生み出すためにハイブリッドサンプルを採取している民間防衛企業「ダークレイク」によって、研究のために維持されていた。

シガニー・ウィーバーが演じるバーソロミューとその組織の正体がここで明かされる。「世界を守るための警備」という大義名分の裏に、軍産複合体的な闇が潜んでいたのだ。

出典:アイアリ

ドラサとリーヴァイは、組織がいざという時に中央部に設置されていた爆弾「野良犬」が核爆発で施設を滅菌する本来の安全策であることを発見する。 つまり2人は、生物兵器実験の失敗を隠蔽するための「蓋」として使われていたわけだ。


結末——脱出とその後

2人は牽引ウインチ付きの稼働中のジープを見つけ、それを使ってホロウメンたちと戦いながら、深い谷から脱出することに成功する。そして、互いが変異原に感染しないよう5日間隔離することに同意する。

終幕のシーンは、隔離期間を経た2人がレストランで再会するというほっこりとしたものだ。核爆発で綺麗さっぱり、何もなかったことになる・・・少々味気ないラストだけが惜しいが、あの距離から始まった2人の関係を思えば、静かな再会の場面には十分な余韻がある。


キャスト&スタッフ

出典:楽天ブログ

マイルズ・テラー(リーヴァイ役)

『セッション』(2014)、『トップガン マーヴェリック』(2022)で国際的な知名度を確立したアメリカ人俳優。本作では主演と製作総指揮を兼任している。元海兵隊という設定に説得力を与える体格と、コミカルなシーンでの自然な演技が光る。

アニャ・テイラー=ジョイ(ドラサ役)

Netflixドラマ『クイーンズ・ギャンビット』でゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞し、『マッドマックス:フュリオサ』(2024)でアクション映画への適性も証明した。本作でもその二面性——知性と野性——を惜しみなく発揮している。

もともと友人だったというマイルズとアニャが、念願叶って共演を果たした本作。「物語の主軸にあるのはラブ・ストーリー」と紹介するマイルズに、「ミステリー、ロマンス、アクション、ホラーも詰まっています」とアニャが付け加えた。

シガニー・ウィーバー(バーソロミュー役)

『エイリアン』シリーズの永遠の女戦士が、今作では任務を下す謎多き高官として登場。出番は多くないものの、その存在感は圧倒的だ。

スコット・デリクソン(監督)

『ヘルレイザー ゲート・オブ・インフェルノ』(2000年)、『エミリー・ローズ』(2005年)、『フッテージ』(2012年)、『NY心霊捜査官』(2014年)と、続々とホラー映画を手がけ、2016年には『ドクター・ストレンジ』で大作にも挑戦。そこから最近は『ブラック・フォン』(2022年)とまたミニマムなホラーに帰ってきた。 本作はその集大成とも言えるジャンル越境的な野心作である。


監督の影響源——バーヴァ、アルジェント、そして黒澤明

デリクソン監督の芸術的志向は本作のいたるところに刻まれている。

本作の不気味で美しい峡谷の風景やクリーチャーのデザイン。どこか既視感があるようで、でも新しい……その秘密は、監督が影響を受けたアーティストや作品にあった。ポーランドの画家ズジスワフ・ベクシンスキーの退廃的な絵画、黒澤明監督ら侍映画の殺陣、イタリアン・ホラーの色彩感覚、そしてフォークホラーの不穏な自然描写……。これらの要素をデリクソン監督流にミックスすることで、あの独特な世界観が生み出された。

そして最も注目すべきは、日本ホラー映画への言及だ。「この映画には、非常に強い日本映画の影響が感じられると思います。なぜなら、超常現象や幽霊、クリーチャーの物語において、日本映画の想像力こそ映画史上最高の作品を生み出してきたと私は考えているからです」とデリクソン監督は語っている。 C

これは日本の映画ファンとしては素直に嬉しい言葉だ。『リング』や『呪怨』が定義した「見えない恐怖」の文法が、この峡谷の霧の中に確かに生きている。


賛否両論の理由——ジャンル越境の功罪

本作はFilmarksで2,900件以上のレビューで平均スコア3.7点という評価を得ている。 数字としては「悪くはないが傑作とも言いにくい」という位置にある。この評価は本作のジャンル越境という性質と正比例している。

前半のラブコメ的な温かさを求めてきた観客は、後半のSFホラー展開に戸惑う。一方でホラー目的の観客は、前半の恋愛描写が長すぎると感じる。「ヒト×動物×植物×その他諸々のDNAがかけ合わさって……」と言っているのだからもっとクリーチャーのパターンを見せてくれても良いのに、そのほとんどがヒト植物型のデザインでは寂しい という指摘もある。

それでも個人的には、このジャンルを越境しようとする無謀なまでの意欲こそが本作最大の魅力だと思う。ひとつのジャンルに収まることを拒否し、コロナ禍の孤独というリアルな感情から出発した物語は、「本作のシナリオはコロナウイルスによる外出制限のさなかに執筆されたものであり、あの距離がなければ主人公たちは他人とのつながりを強く求めることはなかったのだろう」というデリクソン監督の述懐 に集約されている。

隔絶が生む切望、距離が生む愛——それはパンデミック時代が人類に刻んだ最もリアルな感情だったはずだ。


総評

出典:映画.com

ロマンス、SFホラー、アクション、政治スリラーを一本の映画に全部詰め込んだ、悪く言えば節操なし、良く言えば前代未聞の娯楽作である。前半の「双眼鏡越しの遠距離恋愛」という詩的な設定が本当に素晴らしく、あのパートだけで映画として成立している。後半のクリーチャーアクションは賛否あるが、マリオ・バーヴァやアルジェントへのオマージュが込められた色彩豊かな谷底の映像美は一見の価値がある。

マイルズ・テラーとアニャ・テイラー=ジョイという二人の俳優が本当に魅力的で、彼らの掛け合いを見ているだけで2時間7分が楽しめる。Apple TV+史上最大のヒット作という事実は、いまの映画ファンが「ジャンルの複合」に飢えていることを示しているのかもしれない。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次