宮沢賢治の童話に、『よだかの星』という作品がある。 容姿の醜さゆえに仲間外れにされ、鷹から改名まで強要されたよだかという鳥が、ある夜ふと気がつくのだ。自分が生きるために、夜ごと無数の虫を口に飲み込んでいることに。
「ああ、かぶとむしや、たくさんの虫を殺した。それはみんな私が悪かったのか。」― 宮沢賢治『よだかの星』より
よだかはそこから立ち直れなくなる。飛べば飛ぶほど虫を殺す。生きれば生きるほど命を奪う。それが耐えられなくなって、よだかはついに死を選び、最後は夜空の星になる。
子どもの頃にこの話を読んだとき、正直、どこか遠い話だと思っていた。虫を食べることで悩む鳥の話。きれいな童話だとは思ったけれど、自分の問題としては受け取れなかった。
でも、カフェをやるようになってから、この場面が妙に引っかかるようになった。
うちの店には、ときどき外国からのお客さんが来る。鞆の浦という場所柄か、日本人の観光客に混じって、欧米や東南アジアから訪れる方も少なくない。そういうお客さんの中に、肉を食べない方がいる。
ベジタリアンの方もいれば、宗教的な理由でお肉が難しい方もいる。体質的にどうしても受けつけないという方もいるし、単純に自分の選択として菜食を選んでいる方もいる。理由はひとそれぞれで、そこに優劣はない。
そういうお客さんに対して、僕は何も思わない。何も判断しない。野菜のパスタを出せるかどうか考えるだけで、その方の生き方にあれこれ感想を持つことはない。
ただ、厨房に戻ったとき、ふっとよだかのことを思い出すことがある。
僕は毎日、肉を扱う。パスタのソースにベーコンを入れる。ピザにサラミを乗せる。
もちろん魚介類も当然使う。
出汁をとるために煮干しを使う。
誰かの命を、何も考えずに食材として使っている。
それに罪悪感があるかと問われれば、正直なところ、大きな罪悪感はない。人が食べて生きていくことの中に、どうしても他の命をいただくことが含まれているのは、ずっとそうだったことだ。よだかが虫を飲み込むように、僕たちも何かを食べなければ生きていけない。
でも、「小さな罪悪感」というのは、確かにある。
それは、何かを食べるたびに胸が痛むという種類のものじゃない。もっと静かな、霧みたいなものだ。肉のパスタを美味しいと食べながら、でも一方で、その食べ物が命だったことを忘れていない、という感覚。忘れていないことで、かろうじて保たれている何か、とでも言えばいいか。
菜食主義の方が店に来たとき、僕はその選択を尊重する。でも、そこに「あなたは正しい」という気持ちはない。僕の選択が間違っているとも思わない。ただ、違う道を歩いている人がいるということ、それだけだ。
よだかはあれだけ苦しんで、結局、星になることを選んだ。それがよだかにとっての答えだった。でも、同じ夜空を飛ぶすべての鳥が、よだかと同じ苦悩を抱えなければならないわけじゃない。虫を食べながら元気に飛んでいる鳥だって、ちゃんとそこにいる。
人の食べ方も、たぶんそういうものだと思う。
賢治自身は菜食主義者だった。動物の命を奪うことへの苦悩は、よだかというキャラクターを借りた、賢治自身の問いだったのだろう。その誠実さには、素直に頭が下がる。
僕はそこまで真剣に食と向き合えていないかもしれない。でも、よだかの星を読むたびに、今日もどこかで命をいただいたということを、ほんの少しだけ、意識させられる。
それで十分な気もするし、十分じゃない気もする。
よだかの星は、今夜も夜空で燃え続けているらしい。 僕はその下で、明日もパスタを茹でる。

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