なぜこれを見始めたのか、正直なところ定かではない。気がついたら再生していた、というのが実情に近い。
「エンゼルコップ」は1989年から1994年にかけて制作・発売されたOVA(オリジナルビデオアニメーション)で、全6話。1話あたりおよそ30分という短さが、なんとか最後まで見切れた最大の理由だと思っている。
出典:ameblo.jp
結論から言えば、内容としては面白かった。だが、真面目すぎる。笑いの要素はほぼ皆無で、恋愛というものもほとんどない。グロテスクなシーンも多く、正直なところあまり人にお勧めできる作品ではない。それでも記録として残しておこうと思い、この記事を書いている。
最近のアニメはデフォルメが強すぎるというか、軽さが目立つ。それはそれで「くだらない」と敬遠しているのだが、こういう突き抜けて重い作品を見ると、宇宙ものや恋愛ものの方がまだ気楽に楽しめると素直に思う。真面目さにもほどがある、ということを痛感させてくれた作品だった。
まず、作品の基本情報について
| 原案・監督 | 板野一郎 |
|---|---|
| 脚本 | 会川昇(第1話)、板野一郎(第2〜6話) |
| キャラクターデザイン | 結城信輝 |
| 作画監督(第1話) | 梅津泰臣 |
| 音楽 | 小笠原寛(後の手使海ユトロ) |
| 製作 | 創映新社 |
| 発売期間 | 1989年9月1日〜1994年5月20日 |
| 話数 | 全6話(各約30分) |
製作会社の創映新社は、アダルトアニメ『くりいむレモン』シリーズで知られる会社だ。その資金力を元手に一般向けのOVA市場へ参入した作品のひとつが本作である。
監督の板野一郎(1959年生まれ)は、『超時空要塞マクロス』の戦闘シーンで確立した「板野サーカス」という独自演出で知られるアニメーターである。「板野サーカス」とは、ミサイルや飛翔体が複雑な軌跡を描きながら高速で画面を飛び交い、カメラがそれを追うように動くアクロバティックな演出技法のことだ。本作ではそれが銃撃戦・格闘戦に転用されており、映像的な密度は高い。
第1話の作画監督を担当した梅津泰臣の仕事は、その密度において当時のOVA水準を大きく超えると言われている。人体の重量感、暴力描写の生々しさ——この第1話のクオリティが本作に対する評価を高める一方、4年の制作中断を経た第4〜6話では予算・体制の変化から作画品質が落ちており、その差が歴然としている。
脚本については、第1話を担当した会川昇が監督との方向性の相違により降板し、第2話以降は板野が自ら脚本を書いている。会川の降板後、作品の政治色と暴力性がさらに強まったと評されており、なるほど後半になるほどドロドロの度合いが増していく。
あらすじ(ネタバレあり)
舞台は「20世紀末の日本」。GNP世界第1位となった経済大国・日本を快く思わない極左勢力や共産国家がテロ活動を活発化させており、治安が極度に悪化している。これに対応するため政府は警視庁公安部内に特殊公安(特公)を設置し、捜査官には犯人射殺を認める射殺許可証「マーダー・フリー」まで与えた。
主人公は新人捜査官のエンゼル(三加和蓉)、声は土井美加。パートナーのライデン(酒田勇)、声は江原正士。二人が国際テロリストの追跡任務にあたる中、謎の超能力者たちがテロリストを次々と惨殺し始める。追跡戦でライデンは重傷を負い、防衛庁の市原博士によって脳を除く全身をサイボーグ化されて復活する。
超能力者たちは「ハンター」と名乗る男女(アスラとフレア)で、元は米軍の生体兵器実験体として改造された逃亡者だった。彼らは独自の正義でテロリストを狩っていたのだが、話が進むにつれ特公の敵に回っていく。
物語の転換点は、東京都知事の舞坂英正(声:阪脩)が突然特公捜査官全員の抹殺命令を下すところだ。特公が2年間追ってきた「Hファイル」の存在を示した瞬間、舞坂は本性を現す。守るべき国家権力が敵に変わる瞬間で、ここから物語は三つ巴の逃亡劇と殺し合いに突入する。
そして最終話「天使」で明かされる真相——「Hファイル」のHは「Hebrew(ヘブライ)」を意味しており、国際資本が日本の政財界に浸透して日本を放射性廃棄物の処理場として売り渡そうとする陰謀の証拠文書、というのが日本語版のオリジナル設定だ。この部分については後述するが、現代の視点からは深刻に問題のある内容である。
クライマックスで、エンゼルは強化外骨格スーツを纏って黒幕組織と最終決戦。サイボーグのライデンはハンターの首謀者ルシフェルと相打ちになって自爆死し、アスラも能力を使い果たして死ぬ。最終的な生存者はエンゼルとジチョウ(特公部長・滝海将)の二人だけ。陰謀は阻止されたものの、仲間は全滅し、特公という組織も壊滅した。エンゼルは強化スーツを脱ぎ捨て、荒廃した都市にひとり立つ——。
後味がものすごく悪い終わり方である。「勝った」のか「負けた」のか判然とせず、残るのは喪失感だけだ。それ自体は決して悪いことではないが、この作品は最初から最後まで徹底してその調子なので、見ている側が相当疲弊する。
真面目すぎる、という問題
本作には笑いの要素がほぼ存在しない。息継ぎのような軽いシーンもなく、恋愛の匂いも皆無だ。登場人物は常に切迫しており、暴力とグロテスクな描写が連続する。グロテスクという点では、人体破壊の描写や拷問シーンが相当な頻度で出てくる。これが苦手な人には完全に向かない作品だ。
1話あたり約30分という短さが、個人的には救いだった。もしこれが45分×6話だったら、途中で投げ出していた可能性は高い。短尺ゆえに「もう少し見てみようか」と次の話に手が伸びた。30分というフォーマットが、本作の重さをぎりぎり許容できる範囲に収めている。
逆説的ではあるが、こういう突き抜けて重い作品を見ると、普段「くだらない」と思って敬遠している最近のアニメ——デフォルメの効いた日常系や、宇宙もの、恋愛ものの方が気楽に楽しめるという事実を再認識させられる。作品の質とは別に、見ていて疲れない、それは価値のことなのだと思う。
ただし、テーマの深さは本物である
「正義のための暴力」というジレンマ
本作の中心にあるのは「正義のために暴力を行使することは許されるか」という問いだ。特公に付与された「マーダー・フリー(射殺許可証)」はその極端な形象化で、国家が個人に「合法的殺人」を与えるという設定は、法哲学的にも相当に挑発的である。
さらに物語が進むと、その「国家が与えた正当性」の根拠そのものが腐敗していることが明らかになる。守るべき国家が敵になった瞬間、特公の暴力から法的根拠は消える。それでもエンゼルは戦い続けるのだが、この「正義そのものへの信念(あるいは習慣)が国家の正当性を超える」という倒錯こそが、本作が単なる暴力アニメに終わらない理由だ。
サイボーグ化というメタファー
ライデンが「脳だけ人間のままで全身を機械に置き換えられる」という設定は、哲学的な意味を持っている。デカルト的な心身二元論(魂は脳、肉体は機械)を視覚化したものだが、板野はここに意地悪な逆説を仕込む。最も「機械」に近い存在であるライデンが、最終話において最も「人間的」な行為——自己犠牲、死の選択——を示すのだ。
機械が示した最も人間らしい行為、という構図は、バブル期の日本が経済的成功のために何を失っていったかという社会批評としても読める。これは映画『ブレードランナー』(1982年)の命題とも通底する問いかけだ。
「天使」という名の皮肉
主人公の名前「エンゼル(天使)」と、最終話のサブタイトル「天使」の対比は意図的な皮肉として機能している。天使は本来、守護と聖性の象徴だ。しかしエンゼルがとる行動は射殺・拷問への黙認・殺戮の連続で、作品の最後に強化スーツを脱いでようやく「人間の顔」を取り戻す。「天使」という名が示す理想と、実際の行為の乖離が最大化した後、ようやく一致へと向かうという構造が、タイトルに埋め込まれていた。
また、ハンターの首謀者が「ルシフェル(堕天使)」と名付けられているのも偶然ではない。かつて天使だったが神に反逆して堕ちた存在——これはハンターたちが「政府に作られた善の道具が暴走した」という経緯と完全に対応している。「エンゼル(天使)」と「ルシフェル(堕天使)」の対比は、「堕ちた正義と堕ちていない正義の差は何か」を暗黙のうちに問い続けている。
漫画版との違いについて
漫画版は北崎拓の作画により『月刊ニュータイプ』に1989年に連載され、翌年に単行本化されている。
アニメ版との最大の違いは、サイボーグ化される人物だ。アニメではパートナーのライデンが機械化されるが、漫画版では主人公のエンゼル自身がサイボーグ化される設定になっており、彼女の人間性の喪失と苦悩が中心テーマとして描かれている。
この差は大きい。主人公自身が「機械化された肉体」を生きるとなれば、「人間とは何か」という問いはより直接的・切実に物語の中心に置かれる。漫画版の設定の方が、テーマとの有機的な結合という意味では整合性が高いとも言える。板野が脚本を引き継いで改変した結果、焦点が内省から外部への攻撃性へとシフトしたと見ることができる。
また、漫画版では後述する反ユダヤ的表現が薄められているとも言われており、問題の深刻さという点でも両者には差がある。
見過ごせない問題:反ユダヤ的陰謀論の採用
⚠️以下は批評的文脈における記述であり、反ユダヤ主義的言説を肯定するものではない。
この作品を語る上で避けて通れないのが、最終話における反ユダヤ主義的な陰謀論の採用だ。「Hファイル」のHが「Hebrew(ヘブライ=ユダヤ)」を意味し、「ユダヤ資本が日本を買い占め、放射性廃棄物の処理場にしようとしている」という陰謀が真相として提示される。これは19世紀末に広まった偽書『シオンの議定書』を源流とする差別的陰謀論の典型的な形式だ。
英語版を発売したManga Entertainmentはこの表現を全面改変し、「ユダヤ」を「多国籍企業」「腐敗した政府」等に置き換えた。その後2022年、Discotek Mediaがオリジナルの表現を忠実に字幕翻訳したBlu-rayを発売し、改めて議論を呼んでいる。
Anime Herald誌(2024年)は「エンゼルコップの反ユダヤ的な展開は、アニメの大衆文化の中では稀だったが、1980年代後半の日本メディア全体としては珍しくなかった」と評している。 実際、バブル期の日本では「ユダヤ陰謀論」を題材にした大衆書籍がベストセラーになる時代があり、本作はその文化的土壌から生まれた産物のひとつと見るべきだろう。
板野一郎本人がこの設定について具体的に釈明した公式発言は現在のところ確認されていない。後年、映画『第9地区』に関連したインタビューで本作を「あれは早過ぎましたね」と一言述べたのみで、その言葉が自賛なのか述懐なのかも判然としない。
総括:記録として残しておく
内容としては面白い。「正義のための暴力は正当化されるか」「機械化された肉体に人間性は宿るか」という問いは今も古びていないし、「天使」と「堕天使」の命名に込められた皮肉な構造も秀逸だ。映像的な密度、特に第1話の作画クオリティは一見の価値がある。
しかし、真面目すぎる。笑いも恋愛もない。グロテスクなシーンの連続に、後半は慣れと疲弊が同時に押し寄せてくる。後味は悪く、見終えた後に爽快感は何もない。深さはあるが、それが重さと直結している。
また、終盤に集中している反ユダヤ的陰謀論の採用は、現代の視点では到底看過できるものではなく、この一点だけで「お勧め」という言葉を躊躇させる。作品の思想的問題として正面から向き合う覚悟がある人でなければ、近づかない方がいい作品だ。
それでも——30分×6話という短さで完結する構成上、消耗しきる前に見終えられる。それが本作の唯一の「やさしさ」かもしれない。


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