太宰治の『葉桜と魔笛』は、老夫人が若き日の妹との記憶を語る短編である。
舞台は、日本海沿いの城下町。語り手の姉と妹は、父とともに寺の離れで暮らしている。妹は腎臓結核を患い、医者からは余命百日ほどと告げられている。
ある日、姉は妹の箪笥から、M・Tという男性から届いたらしい恋文の束を見つける。姉は、妹がその男に捨てられたのだと思い込み、妹を慰めるため、M・Tになりすまして手紙を書く。しかし妹は、それを姉が書いたものだと見抜く。
そして、さらに思いがけない事実を告白する。M・Tからの手紙もまた、妹自身が淋しさのあまり、自分宛てに書いていたものだった。
この作品を読むと、最初は「姉妹愛」や「やさしい嘘」に目が向く。
死にゆく妹を思う姉。
妹を傷つけまいとして書かれた偽りの手紙。
そして、約束の六時にどこからか聞こえてくる軍艦マーチの口笛。
たしかに、それらは美しい。
けれども、この作品で本当に胸を突くのは、奇跡めいた口笛よりも、妹の告白である。
妹は言う。
自分は本当は、恋人などいなかった。男の人と話したことすらなかった。淋しさのあまり、自分で自分宛てに手紙を書いていたのだ、と。
この告白は、恥ずかしい。
痛々しい。
けれども、だからこそ、どうしようもなく人間らしい。
妹は、ただ清らかな少女として死んでいくのではない。
彼女の中には、もっと生きたかったという思いがある。
恋をしたかったという思いがある。
誰かに見つめられたかった。
抱きしめられたかった。
自分の髪も、指先も、若い身体も、このまま何も知らずに消えていくのが耐えられなかった。
その叫びが、作品の中心にある。
『葉桜と魔笛』の妹は、病弱で、美しく、可憐な存在として語られる。姉の目から見ても、妹は「きれいな少女」のまま死なせてやりたい存在だった。だから姉は、妹の手紙を焼く。父にも世間にも知られないようにしようとする。
だが、妹自身は、そのような「きれいな少女」としてだけ死にたかったわけではない。
むしろ妹は、最後にその像を自分で壊す。
「あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。」
この言葉は、とても重い。
ここでいう「お悧巧」とは、単に勉強ができるとか、行儀がいいという意味ではない。
父の厳格さの中で、世間の目を気にし、清く正しく、慎ましく生きてきたこと。
欲望を出さず、恋を知らず、危ない場所へ踏み出さず、女としての自分の身体を持て余したまま、ただ「よい娘」として生きてきたこと。
妹は、その生き方そのものを、死の直前になって悔やんでいる。
もちろん、当時の時代背景を考えれば、若い女性が自由に恋愛することは簡単ではなかっただろう。父は厳格であり、姉妹は母を早くに亡くしている。家の中には、どこか息苦しい規律がある。妹が本当に男性と大胆に関わることなど、現実にはほとんど不可能だったかもしれない。
それでも妹は思う。
それでも、もっと生きればよかった。
もっと馬鹿になればよかった。
もっと恥をかけばよかった。
もっと誰かを好きになり、傷つき、泣き、身体ごと青春を味わえばよかった。
この後悔は、病人だけのものではない。
人は誰でも、年齢を重ねてから「あのとき、もっと素直に生きていれば」と思うことがある。
慎重にしすぎたこと。
失敗を恐れて踏み出さなかったこと。
みっともない姿を見せたくなくて、何も言えなかったこと。
自分の気持ちを、きれいな理屈で押し込めてしまったこと。
そういうものは、後から振り返ると、案外、人生の大きな空白になっている。
妹の架空の恋文は、その空白を埋めるための行為だったのだと思う。
彼女は、自分の人生に起こらなかった恋を、自分で作った。
誰にも愛されなかったわけではない、と信じたかった。
誰かが自分に言葉をくれたことにしたかった。
自分の青春にも、待つ時間や、ときめきや、秘密があったことにしたかった。
それは滑稽かもしれない。
だが、その滑稽さを笑える人は、あまりにも鈍感である。
人間は、現実だけでは生きられないときがある。
特に、目の前に死が迫っているとき、まだ何も経験していない若い身体を抱えているとき、人は自分のための物語を作らずにはいられない。
妹の手紙は、嘘ではある。
しかし、それは自分を飾るための嘘ではない。
生きられなかった青春を、せめて紙の上にだけでも存在させるための、必死の創作だった。
だからこそ、この作品は小説そのものについての物語にも見える。
妹は、自分宛ての恋文を書く。
姉は、M・Tになりすまして手紙を書く。
二人とも、現実には存在しないものを、言葉によって作ろうとする。
その意味で、二人はどちらも物語を作っている。
そして太宰治は、その物語をさらに小説として書いている。
つまり『葉桜と魔笛』には、虚構の層がいくつも重なっている。
しかし、その虚構の中心にあるのは、きれいな作り話ではない。
「死にたくない」という、むき出しの叫びである。
妹は、死を美しく受け入れてはいない。
静かに諦めてはいない。
むしろ、最後の最後で、自分の若さを惜しんでいる。
「あたしの手が、指先が、髪が、可哀そう。」
この感覚は、非常に生々しい。
死が怖い、というだけではない。
自分の身体が、何も知らないまま失われていくことが悲しいのである。
まだ誰かに触れられていない手。
まだ十分に見られていない髪。
まだ生きるはずだった指先。
それらを、妹は「可哀そう」と言う。
ここには、肉体を持って生まれてきた人間の悲しみがある。
人は精神だけで生きているのではない。
考えや信仰や道徳だけで生きているのでもない。
身体がある。
欲望がある。
誰かに触れたい、触れられたいという思いがある。
妹は、それを最後に認める。
そして、そのことによって、かえって彼女は単なる可憐な病人ではなくなる。
ひとりの若い女性として、強烈な存在感を持ちはじめる。
姉にとって、それは衝撃だったはずだ。
姉は、妹を守ろうとしていた。
妹を美しいまま、清いまま、何も知らない少女のまま死なせようとしていた。
それは姉の愛情であると同時に、姉自身の願望でもあったのだろう。
しかし妹の告白によって、姉は知ってしまう。
妹は、姉が思っていたような無垢な少女ではなかった。
いや、無垢でありながら、同時に欲望を持った人間だった。
その事実を前に、姉は妹を責めることができない。
ただ抱きしめることしかできない。
この場面が美しいのは、姉が妹を理解したからではない。
おそらく、完全には理解できていない。
悲しいのか、怖いのか、うれしいのか、恥ずかしいのか、自分でもわからなくなっている。
それでも、抱きしめる。
人間同士の関係において、理解より先に抱擁があることがある。
言葉では受け止めきれないものを、身体で受け止めるしかない瞬間がある。
その直後に、口笛が聞こえる。
軍艦マーチという選曲も、不思議である。
外の世界では、日本海海戦という国家的な戦争が起こっている。
遠くでは大砲が鳴り、国が勝った負けたと騒いでいる。
しかし、この小さな寺の離れでは、ひとりの少女の青春が終わろうとしている。
世界の大きな歴史と、個人の小さな死。
国家の軍艦マーチと、妹のためだけに鳴る口笛。
その対比が、この作品に奇妙な深さを与えている。
妹にとって、その口笛は勝利の音ではない。
恋の証明であり、物語の完成であり、生きそこねた青春に対する、最後の贈り物である。
本当に神が鳴らしたのか。
父が吹いたのか。
偶然だったのか。
それはわからない。
しかし、あの瞬間だけは、妹の作った虚構も、姉の作った虚構も、現実の音になった。
生きられなかった青春が、ほんの少しだけ、この世に姿を現した。
だから『葉桜と魔笛』は、ただ悲しい作品ではない。
そこには、失われた青春への悔しさがある。
しかし同時に、たとえ現実には生きられなかったとしても、人は言葉によって、自分の人生に意味を与えようとするのだという、切実な希望もある。
妹は、本当の恋をしなかった。
しかし恋文を書いた。
男の人に抱かれることはなかった。
しかし、抱かれたかったと口にした。
青春を十分に生きることはできなかった。
しかし、青春が大事なものだと、死の前にはっきり知った。
その叫びは、遅すぎたのかもしれない。
けれども、無意味ではない。
人間は、生きそこねたことによっても、自分の人生を知ることがある。
叶わなかった願いが、その人の輪郭をもっとも鮮やかに浮かび上がらせることがある。
葉桜は、満開の桜ではない。
花の盛りは過ぎている。
けれども、そこには散ったあとの静けさがあり、過ぎ去ったものを思い出させる力がある。
妹の青春もまた、満開にはならなかった。
けれども、葉桜の季節に語り直されることで、その失われた青春は、別の美しさを持ちはじめる。
『葉桜と魔笛』を読むと、人生は「正しく生きたか」だけでは測れないのだと思う。
きれいに生きることと、悔いなく生きることは違う。
慎ましくあることと、ほんとうに生きることも違う。
妹の告白は、そのことを痛いほど教えてくれる。
人は、いつも立派でいられるわけではない。
淋しければ、架空の恋文を書くこともある。
死が怖ければ、みっともなく泣き叫ぶこともある。
失われる身体を思って、指先や髪を可哀そうだと思うこともある。
だが、そういう弱さや恥ずかしさの中にこそ、人が生きていた証がある。
『葉桜と魔笛』の妹は、最後に美しい聖女になるのではない。
もっと生きたかった人になる。
恋をしたかった人になる。
自分の身体を惜しんだ人になる。
だからこそ、彼女の声は、時代を越えてこちらに届く。
「あたしたち間違っていた。お悧巧すぎた。」
この言葉は、若くして死ぬ少女だけのものではない。
失敗を避け、欲望を隠し、世間に合わせ、自分の本音を後回しにしてしまうすべての人に向けられた言葉でもある。
人生は、きれいに整えすぎると、どこかで生きそこねる。
だからこそ、この作品を読み終えたあと、私は思う。
人は少し不器用でも、少しみっともなくても、ちゃんと自分の欲しいものを欲しいと言ったほうがいいのかもしれない。
満開の桜を逃したとしても、葉桜の下でなら、まだ気づけることがある。
妹の叫びは、その遅すぎる気づきの痛みであり、同時に、生きることへの最後の肯定でもある。

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