山本周五郎の『狐』は、題名だけを見ると、いかにも怪異譚のように思える。
狐が人を化かす。
城に怪しいものが出る。
誰も正体を見破れない。
そんな昔話めいた空気が、物語の入口には漂っている。
しかし読み終えてみると、この小説で本当に人を化かしているのは、狐ではないのではないかと思えてくる。
狐は、ただそこに連れてこられただけである。
怪異を作ったのも人間なら、怪異を収めるために狐を利用したのも人間であり、さらにその狐を商売にしようとしたのもまた人間である。
つまり『狐』は、狐に化かされる話ではない。
人間が、自分の思い込みや不安や欲によって、互いに化かし合っている話なのである。
あらすじ——天守に現れた怪異と、狐の正体
物語の舞台は岡崎城である。
城の天守に、夜な夜な怪しいものが出るという噂が広がっていく。番士たちは、異様な声を聞き、宙に舞う白いものを見たと言う。階段には、何者かが近づいてくるような足音も響く。
最初はただの噂だったものが、実際にそれを見聞きした者の証言によって、次第に「妖怪が出る」という確かな恐怖へ変わっていく。
人々は天守を恐れるようになる。
力自慢の者が正体を確かめようとしても、怪異の正体はつかめない。むしろ、わからなかったことによって、噂はさらに強くなる。
そこで老職の拝郷弥左衛門は、娘婿である乙次郎に、天守の怪異を調べるよう命じる。乙次郎は、見た目にはどこかぼんやりした人物である。周囲からは頼りなく見られているが、実は物事を静かに観察する知恵を持っている。
乙次郎は天守に入り、怪異の正体を探る。
そして彼は、怪異が本物の妖怪ではないことを見抜く。
番士たちが聞いた異様な声は、壊れた矢狭間を出入りする鷺の声だった。
宙に舞う白いものも、その鷺の姿だった。
階段の足音のように聞こえたものは、老朽化した天守の木組みがきしむ音だった。
つまり、怪異の正体は妖怪でも狐でもない。
古くなった天守の物音と、鳥の気配と、人々の恐怖心が重なって生まれたものだったのである。
しかし乙次郎は、その真相をそのまま皆に説明しようとはしない。
「妖怪などいない」と言っても、一度怪異を信じた人々は簡単には納得しない。形に見える証拠がなければ、噂は消えない。そう考えた乙次郎は、猟師から狐を買い、それを怪異の正体として示す。
「天守の怪異は狐の仕業だった」
そういう形にすることで、人々の不安は収まる。
天守の怪異は、狐退治によって解決したことになる。
ところが、物語の最後にもう一つの笑いが用意されている。
後日、乙次郎の妻・美弥が、納屋にいる一匹の雌狐を見せる。持ってきたのは、先日乙次郎に狐を売った猟師である。前の狐が五両という法外な値で売れたため、今度は「番になる雌狐」も買ってくれるだろうと考えて、また売りに来たのだ。
乙次郎は困ってしまう。
事件を収めるために買った狐が、思わぬ形で次の狐を呼び込んでしまった。
夫婦は顔を見合わせ、笑い出す。
このラストによって、『狐』はただの怪異解決譚では終わらない。
人間の思い込みと知恵と欲が、軽やかな笑いの中に浮かび上がるのである。
狐は本当に人を化かしたのか
昔話の中で、狐はよく人を化かす存在として描かれる。
人間を迷わせ、別のものを見せ、ありもしないものを信じさせる。狐とは、人間の認識を揺さぶる存在である。
けれども山本周五郎の『狐』では、狐自身は何もしていない。
天守で怪しい声を出していたのは狐ではない。
白いものとして空中を舞っていたのも狐ではない。
階段に足音を響かせていたのも狐ではない。
狐は、事件の正体ではない。
むしろ、事件を終わらせるために乙次郎が用意した「説明の道具」である。
ここが面白い。
人々は狐に化かされたのではない。
自分たちの不安に化かされたのである。
暗い天守、壊れた矢狭間、鷺の声、木組みのきしみ。
それらは一つ一つなら、ただの自然な現象でしかない。ところが、最初に「妖怪が出る」と思い込んでしまうと、すべてが怪しく見えてくる。
白い鳥は妖怪になる。
木のきしみは足音になる。
夜の音は、何者かの気配になる。
人間は、見たものをそのまま受け取っているようで、実は心の中で物語に変換している。怖いと思えば、世界は怖く見える。疑い始めれば、何でも証拠に見えてくる。
『狐』の怪異は、外からやってきたものではない。
人間の心の中から生まれたものなのである。
乙次郎の「化かし方」
では、乙次郎はどうしたのか。
彼は真相を見抜いた。だが、それをそのまま発表しなかった。
ここに、乙次郎の賢さがある。
普通なら、怪異の正体が鷺と木組みの音だったとわかれば、それを説明すればよいと思う。しかし乙次郎は、人間がそう簡単には納得しないことを知っている。
「妖怪などいない」と言われても、すでに恐怖を感じた者にとっては、それは十分な答えにならない。自分が聞いた声、自分が見た白いもの、自分が感じた足音。そうした体験を、ただの勘違いだったとは認めにくい。
人は、正しい説明だけでは安心できないことがある。
自分の恐怖に見合うだけの、わかりやすい結末が必要になる。
だから乙次郎は、狐を用意した。
「怪異の正体は狐だった」という答えは、完全な真実ではない。けれども、人々が納得し、不安を手放すためには効果的だった。
つまり乙次郎もまた、人を化かしている。
ただし、それは悪意のある嘘ではない。噂を収め、城内の混乱を静めるための方便である。
ここに、この作品の複雑さがある。
乙次郎は真実を知っている。
しかし、真実をそのまま投げつけない。
人々が受け取れる形に変えて差し出す。
それは、正直ではないとも言える。
けれども、人間社会では、いつも正論だけで物事が収まるわけではない。
乙次郎の知恵は、真実を暴く知恵ではなく、真実と世間のあいだに橋をかける知恵である。この「人の心を読む力」が、彼をただの怪異退治役ではなく、山本周五郎らしい人物にしている。
現代にもいる「狐」——AI動画と、私が見た偽の生中継
この『狐』を読んでいて、私は最近のインターネットの風景を思い出した。
今はAIで、かなり本物らしい動画を作ることができる。以前なら、映像は「証拠」に近いものだった。写真や動画があれば、多くの人は「実際に起きたことなのだろう」と思いやすかった。
しかし、今は違う。
Xを見ていると、国際情勢が大きく動いたときなどに、いかにも本物らしい戦争映像が次々と流れてくる。イラン、イスラエル、アメリカをめぐる緊張が高まったときにも、まるで現地で撮影されたかのような動画が多く出回っていた。
普通に見ると、本当に見える。
煙が上がり、ミサイルのような光が飛び、街が爆発しているように見える。
けれども、よく調べてみると、半分以上が別の映像だったり、古い映像だったり、ゲーム映像だったり、AIで作られたようなものだったりする。
そこでは、まさに「現代の狐」が走り回っているように感じる。
ただし、それは昔話の狐ではない。
人間の不安、怒り、関心、そして拡散したいという欲が、映像を「真実らしいもの」に変えている。
怖いのは、偽物の映像そのものだけではない。
それを見た人間の心が、「これは本当かもしれない」と思ってしまうことである。
『狐』の番士たちが、鷺の声を妖怪の声として聞いたように、現代の私たちも、画面に映るものを自分の不安や先入観に合わせて受け取ってしまう。
もちろん、私自身も笑って済ませられる程度ではあるが、似たような経験がある。
去年のメジャーリーグのワールドシリーズのときのことだ。
YouTubeで、スコアボードを映しながら試合の状況を配信してくれる人がいて、私はそれを毎朝のように見ていた。
ある日、生中継のような動画がYouTubeに流れていた。
画面には試合らしき映像が映っている。選手が動き、球場があり、いかにも試合中のように見える。
私は十分ほど、それを本物の中継のように見ていた。
ところが、途中で何か違和感を覚えた。
画面の質感なのか、選手の動きなのか、球場の雰囲気なのか、はっきりとは言えない。けれども、どこか本物の試合と違う気がした。
「もしかして」と思ってネットで確認すると、まだ実際の試合は始まっていなかった。
つまり私は、ゲーム映像を本物のメジャーリーグ中継のように見ていたのである。おそらく『MLB The Show』のような野球ゲームの映像だったのだろう。
私はそのゲームをよくやっていたので、途中で気づくことができた。けれども、それに気づいたときは、思わず笑ってしまった。10分も気が付かないとは!
実際見た動画ではないが(おそらく)・・・同じゲームの動画がこれである👇。
「ああ、騙された」
別に深刻な話ではない。
誰かに大きな損をさせられたわけでもない。
けれども、自分が十分間、本物のように見ていたという事実は、少し可笑しく、少し怖くもあった。
人は、画面にそれらしいものが映っていると、簡単に信じてしまう。
特に、自分が「見たい」と思っているものなら、なおさらである。
ワールドシリーズを見たい。
試合が気になる。
早く状況を知りたい。
その気持ちがあると、目の前の映像を「これは試合だ」と受け取ってしまう。
岡崎城の番士たちは、夜の天守で妖怪を見た。
私は朝のYouTubeで、まだ始まっていない試合を見た。
時代も場所もまったく違う。
けれども、そこで起きていることは少し似ている。
人は、目の前のものをそのまま見ているようで、実は自分の期待や不安を通して見ている。
そこに『狐』の現代性がある。
そういえば、この人も騙されていたな・・・と思い出した。(笑)
猟師もまた、別の物語を作る
ラストの雌狐の場面は、この小説を一気に人間臭くする。
乙次郎は、天守の怪異を収めるために狐を買った。
ところが、その狐を売った猟師は、乙次郎の意図など知らない。ただ、「狐が五両という高値で売れた」という事実だけを見ている。
そこで猟師は考える。
前の狐が高く売れたなら、今度は番になる雌狐も売れるのではないか。
この発想が、なんとも可笑しい。
城の怪異を収めるための乙次郎の知恵は、猟師の目には「狐を高く買ってくれる家」としか映っていない。乙次郎が作った「狐の物語」は、今度は猟師の中で別の物語に変わっていく。
ここでもまた、人間は見たいように見ている。
番士たちは、鷺や木組みの音を妖怪として見た。
乙次郎は、人々の不安を収めるために狐を怪異の正体に仕立てた。
猟師は、乙次郎の買い物を「商売の好機」として見た。
誰も、完全には事実だけを見ていない。
それぞれが、それぞれの都合や恐怖や欲によって、目の前の出来事に意味を与えている。
これは現代のネットにもよく似ている。
ある映像を見た人は、それを「真実」として拡散する。
ある人は、それを「自分の主張を補強する材料」として使う。
またある人は、それを再生数や注目を集めるための道具にする。
狐を売りに来た猟師と、偽の中継や怪しい動画を流す人間は、もちろん同じではない。
だが、そこにある「これは利用できる」「これで得をするかもしれない」という感覚には、どこか通じるものがある。
だからこそ、『狐』という題名が効いてくる。
狐が人を化かすのではない。
人間が勝手に化かされ、また別の人間を化かし、さらに自分自身も化かしていく。
この作品の狐は、その人間の滑稽さを映す鏡のような存在なのだ。
美弥の笑いが物語を救っている
この小説で忘れがたいのは、最後に夫婦が笑うところである。
乙次郎は、雌狐を見て困る。
せっかく怪異を収めたのに、余計な狐が一匹増えてしまった。しかも、もしこのことが人に知られれば、また新しい噂が生まれかねない。
しかし、そこで物語は深刻にならない。
乙次郎と美弥は、顔を見合わせて笑う。
この笑いが、とてもいい。
それは、猟師を馬鹿にする笑いではない。
人間というものは、どうにもこうにも自分の都合で物事を考えてしまうものだ、という苦笑に近い。
そして同時に、乙次郎自身の知恵もまた、思わぬ余波を生んでしまったことへの笑いでもある。
私がYouTubeでゲーム映像を本物の中継のように見てしまったときの笑いも、少しそれに近い。
腹立たしさより先に、可笑しさが来た。
「やられた」という気持ちと、「自分も案外簡単に信じるものだな」という苦笑である。
もちろん、戦争に関するデマ動画のように、笑って済ませられないものもある。人の恐怖や怒りを煽り、世論や感情を動かしてしまう映像は、ただの冗談では済まない。
それでも、まず自分自身の中にある「信じやすさ」を知っておくことは大事だと思う。
自分は騙されない。
自分は見抜ける。
自分は冷静に判断できる。
そう思っている人ほど、案外、狐に化かされる。
いや、正確に言えば、狐に化かされるのではない。
自分の期待や不安に化かされるのである。
美弥と乙次郎の笑いは、そのことをやわらかく教えてくれる。
人間は思い込む。
欲も出す。
都合よく物語を作る。
けれども、それを笑い合える余地があるなら、まだ救いがある。
狐よりも、人間のほうがよほど厄介だ
『狐』を読み終えると、題名の意味が少しずれて見えてくる。
狐は、怪異の犯人ではない。
人を化かしたわけでもない。
ただ、人間たちの都合によって、怪異の正体にされ、商売の種にされ、最後には夫婦の笑いの中心に置かれる。
本当に厄介なのは狐ではない。
不安におびえて怪異を作る人間であり、噂を収めるために狐を利用する人間であり、高く売れると思って雌狐を持ち込む人間である。
そして現代でいえば、本物のような偽動画を作る人間、それを本物だと思って拡散する人間、さらにそれを見て不安や怒りを強める人間である。
もちろん、私自身も例外ではない。
ゲーム映像を生中継のように見てしまった。
だからこそ、この小説を他人事として笑うことはできない。
山本周五郎の『狐』は、古い城の天守に出た怪異の話である。
けれども、その奥にある人間の姿は、今のインターネット社会にもそのままつながっている。
人は、見たいものを見てしまう。
怖いものを、さらに怖く見てしまう。
都合のよい意味を、勝手に足してしまう。
狐よりも化かしているのは、人間のほうである。
そして人間は、ときどき自分自身にも化かされる。
それでも山本周五郎は、その人間の厄介さを、最後には夫婦の笑いで包んでみせる。
そこに、この小品の味わいがある。
人間は愚かで、思い込みが強く、欲にも弱い。
けれども、その愚かさを自覚して笑えるなら、まだ完全には救いを失っていない。
『狐』の最後に残るのは、怪異の怖さではない。
狐に化かされたという恐怖でもない。
そこに残るのは、狐よりも狐らしい人間たちの、なんとも言えない可笑しさなのである。

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