山川方夫の『赤い手帖』は、深夜の街で行き場を失った一人の男が、若い恋人たちの「愛」に触れ、自分自身の空虚さに気づかされる物語である。
テレビ番組の録音を終えた男は、若い女優に誘いをかけるがかわされ、さらに年上の女優の部屋を訪ねても不在で、どこにも落ち着けないまま新宿の深夜喫茶に入る。
そこで彼は、赤い革の手帖を使って筆談する十代の男女を目にする。最初、男はそのやり取りを、若者らしい他愛ない戯れ、少しませた恋人同士の言葉として受け取る。
しかし翌日、置き忘れられた手帖を読んだあと、夕刊で二人がホテルで心中していたことを知る。手帖に書かれていた「愛している」という言葉は、軽い恋愛ごっこではなく、死を前にした二人の最後の言葉だった。
男はその事実に衝撃を受けると同時に、いつの間にか自分の中で「愛」という言葉が遠い昔の記憶のように朽ちかけていることにも気づく。若者たちの切実な愛と、自分自身の冷めた日常。その落差が、彼に自分だけが一人の死者のようだという恐怖を抱かせる。
つまり『赤い手帖』は、若い恋人たちの悲劇であると同時に、大人になった男が、かつて自分の中にもあったはずの「愛の切実さ」を失っていたことに気づかされる物語でもある。
男は、最初から少年少女の悲劇に寄り添っているわけではない。むしろ彼は、その夜、かなり軽い気分で街を歩いている。若い娘に声をかけ、車の中で親しくなりかける。だが娘には先約があり、男はあっさりかわされてしまう。次に、以前から関係のある年上の女優の部屋を訪ねるが、そこも不在である。
つまり男は、二人の女性とすれ違ったあと、行き場をなくして深夜喫茶へ向かう。
この前段があることで、喫茶店で見かける少年少女の姿は、より強い対比を持つ。
男にとって、その夜の女たちは「愛する相手」というより、ひと晩の温かさを求める相手である。車の中の娘に対しても、年上の女優に対しても、そこに深い感情の交流があるわけではない。拒まれれば腹は立つが、それは失恋の痛みではない。行き場を失ったことへの苛立ちであり、体の熱を持て余した男の空虚さである。
彼は孤独ではある。けれど、その孤独にはどこか気取った軽さもある。すべての温かい夜に拒まれたように感じながらも、その感覚をどこか楽しんでいる。自分の不運を少し芝居がかったものとして眺め、口笛を吹きながら夜の街を歩く。
その男が、深夜喫茶で若いカップルを見る。
少年と少女は、一冊の赤い手帖を使って筆談している。声に出して話すのではなく、手帖に言葉を書き、互いにそれを読み合っている。その姿は、男の目には、若い恋人たちの少し気取った戯れのように映ったのかもしれない。
そこには、たとえば
「純。ほんとに、私を愛している?」
「答えて。ちゃんと」
「愛している。ココロカラ」
といった言葉が書かれていた。二人は、声ではなく文字で、何度も愛を確かめ合っていたのである。
大人の目で見れば、若い恋人同士の沈黙や筆談は、どこか甘ったるく見える。言葉を大げさに扱い、二人だけの世界を作り、周囲から切り離されたように振る舞う。
実際、手帖には
「朝子、幸福。コワイほどよ」
「コワクテ、イタイノ、アイッテ。フフフ」
「愛してるわ。愛してるわ。愛してるわ」
といった言葉が並ぶ。何も知らずに読めば、それは若い恋人たちの感傷的なやり取りにも見える。
そういう姿に対して、大人はつい冷めた目を向けてしまう。
「若いな」
「芝居がかっているな」
「恋に酔っているだけだろう」
そんなふうに。
しかし物語のラストで、男は新聞記事によって知る。あの二人はホテルで心中事件を起こした少年少女だった。喫茶店で交わされていた赤い手帖の言葉は、恋人同士の気まぐれな遊びではなかった。死を前にした、二人の最後の会話だったのである。
ここで作品の意味は一気に反転する。
男が軽く眺めていたものは、実は命をかけた時間だった。
甘い仕草に見えたものは、最後の切実な確認だった。
赤い手帖は、恋愛ごっこの小道具ではなく、二人がこの世に残した最後の声だった。
その最後の声は、ただ甘いだけではない。
「明日、朝子さんのパパとママ、きっと怒るね。泣く、かな」
「カンケイナイ」
「とにかくウラまれるヨ、ボク」
「気にしないでイイノ」
というやり取りには、すでに二人が日常へ戻らない場所へ向かっている気配がある。
この反転が痛いのは、男が特別に冷酷な人間だからではない。むしろ彼は、ごく普通の大人の男として描かれている。欲望があり、孤独があり、行き場のなさがある。誰かに拒まれれば傷つきもするし、しかしその傷を深刻なものとしては受け止めない。夜が明ければ、また何事もなかったように生活へ戻っていくタイプの人間である。
だからこそ怖い。
男は、若者の愛を見失っていたのではないか。
若い頃には、誰しも一度くらい、愛や恋を世界の中心のように感じたことがあるはずである。相手からの一言に一日中揺さぶられたり、会えない時間を長く感じたり、もうこの人しかいないと思い込んだりする。今から振り返れば、未熟で、狭くて、危うい感情かもしれない。
けれど、そのときの本人にとっては本物である。
年齢を重ねると、人はその本物だったはずの感情を、少しずつ過去のものにしていく。恋は生活の一部になり、愛は情熱だけでは続かないと知る。仕事があり、金があり、体調があり、人間関係があり、責任がある。そうした現実の中で、愛だけを絶対視することは難しくなる。
それは大人になるということでもある。
だが同時に、大人になることは、若い頃に感じた愛の大切さを忘れていくことでもあるのかもしれない。
『赤い手帖』の男は、まさにその場所にいる。彼は女を求めている。温かい部屋を求めている。誰かの体や夜の居場所を求めている。けれど、そこには、少年少女が赤い手帖に託したような切実さはない。
彼にとって女性は、行き場のない夜を満たす相手になっている。
一方、少年少女にとって相手は、生と死を分けるほどの存在になっている。
この差が、この作品の残酷な核心である。
もちろん、少年少女の心中を美化することはできない。若さゆえの視野の狭さ、極端さ、危うさは確かにある。生きていれば、時間が解決したかもしれないこともある。別の人に出会い、別の人生を歩むこともできたかもしれない。
しかし、それは大人の側から見た言い方である。
その瞬間を生きている若者にとっては、その愛がすべてだった。世界の全体だった。だからこそ、赤い手帖に書かれた言葉は重い。
「コノママ、時間が止レバイイノニ、ネ」
「アノコトサ。サッキキメタ」
「コワクナイカ? ホントニ」
この短いやり取りには、幸福の絶頂と、そこから先へ進んでしまう怖さが同時にある。
声に出さず、文字にして交わされたそのやり取りには、二人だけの閉じた世界がある。大人には滑稽に見えるかもしれない。けれど、本人たちにとっては、それが最後の真実だった。
店をしていると、若いお客さんを見ることがある。
恋人同士で来る人もいる。友人同士で来る人もいる。一人で静かに座る人もいる。カウンターの向こうから見ていると、楽しそうに見えることもあれば、少しぎこちなく見えることもある。会話が弾んでいるように見える二人もいれば、ほとんど話さずに座っている二人もいる。
こちらは店主だから、基本的には深く踏み込まない。注文を聞き、料理を出し、会計をする。それ以上のことは、その人たちの領域である。
ただ、『赤い手帖』を読むと、見えているものだけで人を判断することの危うさを考えてしまう。
若い二人が黙っているからといって、退屈しているとは限らない。
笑っているからといって、悩みがないとは限らない。
恋人同士のやり取りが少し幼く見えたとしても、それを軽く見ていいとは限らない。
若い頃の愛は、大人から見ると、しばしば危なっかしい。言葉は大げさで、感情は極端で、世界は狭い。けれど、その狭さの中でしか見えない真実もある。
大人は、それを忘れてしまう。
経験を積むことは、たしかに大切である。若い頃の失敗や思い込みを笑えるようになることも、生きるうえでは必要だ。だが、その笑いがあまりに冷たくなったとき、人は他人の切実さを見落とす。
『赤い手帖』の男は、二人の女性とのすれ違いを経て、深夜喫茶にたどり着く。彼自身もまた、拒まれた夜を抱えている。だが、その孤独はどこか軽い。明日になれば薄れていく孤独である。
一方、少年少女の孤独は、明日を持たないところまで追い詰められている。
同じ夜の中にいながら、男と少年少女はまったく別の重さを生きている。男は愛を消費する側に近づいており、少年少女は愛に飲み込まれている。どちらが正しいという話ではない。ただ、その距離が、読む者に静かな痛みを残す。
若い頃、自分にも何かを絶対だと思った時間があったはずである。
誰かからの言葉に救われたり、逆に傷ついたりした時間があったはずである。
その人がいるかいないかで、世界の明るさが変わるように感じた時期があったはずである。
けれど、年を重ねるうちに、そうした感情は薄れていく。
薄れること自体は、悪いことではない。人はいつまでも十代や二十代の感情のままでは生きられない。生活のためには、感情を落ち着かせることも必要である。すべてを愛や恋だけで判断していたら、日々の仕事も、人間関係も、続けていけない。
それでも、完全に忘れてしまってはいけないものがある。
若い人にとって、その瞬間の恋や悩みは、こちらが思うよりずっと重い。
たとえ大人から見れば一時的なものでも、本人にとっては人生そのものに見えていることがある。
その重さを理解できなくても、軽く笑わないこと。
それだけは、年を取った側に必要な礼儀なのかもしれない。
『赤い手帖』のラストで、男は自分が見ていたものの本当の意味を知る。あの赤い手帖は、若者の気取りではなかった。二人が最後にすがった、小さな言葉の場所だった。
そしてそのとき、男はただ二人の死を知るだけではない。自分自身の中で、いつの間にか愛の切実さが薄れていたことにも、どこかで気づかされるのではないだろうか。
あの夜、男は二人の女性に拒まれ、行き場をなくして喫茶店に入った。
彼は温かい夜を求めていた。
けれど、そこで見た少年少女は、温かい夜どころか、最後の夜を生きていた。
その差に気づいたとき、男の冷めた視線は崩れる。
大人になるとは、愛を軽く扱えるようになることなのか。
それとも、若い頃の愛の重さを忘れたふりをして生きることなのか。
『赤い手帖』は、その問いを静かに残して終わる。
店のカウンター越しに若い人を見るとき、私もまた、知らないうちに大人の物差しで眺めているのかもしれない。若い恋人たちの沈黙を、ただの気まずさと見る。楽しそうな会話を、ただの気軽な時間と見る。少し大げさな言葉を、若さゆえのものとして流してしまう。
けれど、その人たちにとっては、それが大切な時間かもしれない。
こちらには見えない切実さが、そこにあるのかもしれない。
赤い手帖は、小説の中の一冊の手帖である。
しかし、誰かが声にできずに抱えている言葉は、現実の中にもある。
大人の目は、便利である。冷静で、経験があり、物事を少し遠くから見ることができる。
だが、その目が冷えすぎたとき、若い人の本気を見落としてしまう。
『赤い手帖』を読むと、そんなことを思う。
若い愛は、危うい。
けれど、軽いわけではない。
手帖の最後には、
「行ク。ネ、モウ一度、書イテ。愛シテマス。朝子」
「愛シテマス。純」
とある。そして二人は、「出発」という同じ言葉を重ねて、喫茶店を出ていく。
何も知らなければ、それは恋人たちのふざけた合図にも見える。だが結末を知ったあとでは、その「出発」は、あまりにも重い。
その違いを忘れないこと。
それが、年齢を重ねた側に残された、せめてもの誠実さなのかもしれない。

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